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【「九州における前方後円墳の時期的分布」】
インターネット検索でたまたま見つけた、
「九州における前方後円墳の時期的分布(出田和久:奈良女子大学)」は
興味深い論文である。
前方後円墳を地域の首長の墳墓と考えると、
九州島の中での勢力図と結びつけて考えることができる。
【1期(3世紀中)から10期(6世紀中)の時代区分】
時代区分を1期から10期までの10区分としている。
残念ながら考古学の論文では年代を特定しないのが通例らしく
前後関係で表されているだけで年代がはっきりしない。
10期の古墳として岩戸山古墳をあげているので、
10期を「6世紀中」として1世紀を「前・中・後」の3等分して配置すると、
1期が「3世紀中」となる。
※炭素年代測定などによる実年代で示していただくことを切望します。
【1期(3世紀中)】
前方後円墳が出現しはじめた1期(3世紀中)は、
「周防灘から玄界灘の九州北部沿岸か沿岸に程近いところに出現」 とあり、
前方後円墳は北部九州にかぎられていた。
石塚山古墳:京都府苅田町
津古生掛(つこしょうがけ)古墳群津古2号墳:小郡市
【2期(3世紀後)】
2期(3世紀後)には、「九州南部宮崎平野に出現」する。
宮崎市の生目古墳群の1号墳、4号墳が該当する。
北部九州に次いで宮崎県に大勢力が現れたことになる。
【3期(4世紀前)】
3期目(4世紀前)には、
「壱岐・対馬の島嶼部、九州北部遠賀川流域、
有明海南部宇土半島基部及び島原半島、
宮崎平野中部西都原古墳」に分布エリアが拡大する。
2期までの北部九州と宮崎県は分布エリアを拡大し、
壱岐・対馬に出現していることも興味深い。
【4期(4世紀中)、5期(4世紀後)】
4期(4世紀中)、5期(4世紀後)になると、
西都原古墳の中でも有名な「男狭穂塚古墳」、「女狭穂塚古墳」が出現しており、
宮崎勢力は最盛期を迎えている。
【6期(5世紀前)、7期(5世紀中)】
6期(5世紀前)、7期(5世紀中)にはなぜか前方後円墳は規模が縮小し、
出現数も減少している。
この時期は「倭の五王」の時代に当たる。
まさに戦争に明け暮れた時期で、
古墳造営に労働力を集めることができなかったのではないだろうか。
【8期(5世紀後)】
8期(5世紀後)になると一変して増加に転じる。
前方後円墳42基。Ⅶ期の1.4倍である。
大型古墳も出現し、100m超が4基、
筑後川流域に2基、宮崎平野南部に2基あり、
宮崎平野周辺の相対的分布密度が高くなっている。
【9期(6世紀前)】
さらに9期(6世紀前)では、前方後円墳78基と2倍に急増する。
地域的には九州北部での増加が顕著で、
菊池川流域の弁慶ヶ穴古墳は110mを超える規模である。
北部勢力が優勢となったようである。
【10期(6世紀中)】
最後の10期(6世紀中)には、九州南部から前方後円墳は姿を消す。
筑前とその周辺に分布が限定される。
100mを超えるのは岩戸山古墳だけである。
【前方後円墳の時期的分布から見る九州マクロ通史】
上記から九州内での歴史をマクロ的に以下のように考えることができるだろう。
3世紀中頃大勢力が北部九州に存在していた。(邪馬壹国か)
3世紀後半になると対抗する規模の勢力が宮崎平野に出現する。(狗奴国か)
5世紀まで南北両勢力の拮抗時代は継続している。
5世紀代に中国宋に朝貢することによって勢力を増した
「倭の五王」が統治する北部九州が勢力を拡大し、
倭王武の頃には宮崎平野の勢力を平定する。
岩戸山古墳の倭王磐井は倭の五王の後継(子か孫)であろう。
(年代は古墳設営に合わせているので実年代は数十年遡る)
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百済王亡命伝説
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(^。^) こんばんは。
古墳は確かにのこりますから、いろんな事が解って来ますね。
古墳の形式などもう少し知りたいと思っています。
出雲の西谷墳墓群は、四隅突出型ですね。綺麗に整備されました。
誰の墓かはまだ謎とされています。
先日の「おお」は松江を指す、「意宇」だと思います。
国引き神話で八束水臣津命の国引きを終えて、発した言葉「オエ!、からきてるものですね。今で言う、やった!ブラボー、みたいなものだと思います。
2015/8/21(金) 午後 8:37
> さんせいさん、こんばんは。
今回たまたま読んだ論文は、九州内の前方後円墳の分布を客観的に記述してありました。
先入観で解釈が入ったものはかえって実態がわかりにくくなりますが、
そうでなかったので非常に参考になりました。
出雲中心の四隅突出型も時系列的な分布がわかると面白いかもしれませんね。
「意宇」、何かを達成した時の言葉が地名になったり人名になったりしているのですね。
2015/8/21(金) 午後 9:32 [ 記紀いっぱつ ]