百済本記 54 高麗人の帰化実は日本書紀の中に引用されている百済本記(逸文)は欽明天皇十七年条で終わっている。
その後の部分にも倭国と百済が新羅と抗争を続ける場面が多く出てくるので百済本記に基づく記述がかなりあるものと思われる。
欽明二十三年八月条の倭国百済連合軍による高句麗攻撃で百済系の記述は一段落となっている。
欽明二十六年からは高麗人の帰化に関する記述が描かれている。
欽明二十六年(565年)夏五月、高麗人頭霧唎耶陛(づむりやへ)等、筑紫に投化し、
山背国に置り。
今の畝原、奈羅、山村の高麗人の先祖なり。
高麗人が筑紫に帰化したという。
日本書紀の注では、その後に出ている「山背国」は京都の山城国と解釈している。
したがって高麗人の住んでいる場所である「畝原」、「奈羅」、「山村」も疑いもなく山城国内の類似地名に比定しようとしている。
筑紫に帰化した高麗人が何故山城国に移されたのか定かではない。
もし実際に筑紫から山城国に移したのだとしたら、「山背国に置り」ではなく、移動を意味する言葉を使うのではないだろうか。
私はここで帰化したことになっている高麗人は筑紫のどこかに住みついたと解釈するのが自然だと思う。
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日本書紀の中の百済
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こんばんは。
筑紫の朝倉でしょうか。
ヒントになるようなものが、現地に残されているのでしたら、友人が朝倉市甘木にいますので、ちょいと尋ねてみようかな。
びっくりするでしょうが。「お前いつから歴史学者になったんだ?」と言われそうですが。そういえば、彼も半島系の顔をしていますが、根拠はないですよね。かなりのインテリですので何か知ってるかも知れません。
2011/11/30(水) 午後 7:49
さんせいさん、おはようございます。
「畝原」は地名も人名も散在しているようです。
「奈羅」、「山村」は一般的過ぎて、
手掛かりにならないかもしれません。
朝倉市甘木のご友人の見解をぜひ聞かせてください。
朝倉市には弥生時代から古墳時代にかけて早々に開発された平塚川添遺跡があり、以前訪れたことがあります。
大宰府から朝倉市にかけて古代王国の中心部があったことがあるのではないでしょうか。
2011/12/1(木) 午前 9:43 [ 記紀いっぱつ ]
百済人と韓国人(朝鮮)は民族的に無関係
女真族と韓国人は無関係
2012/1/7(土) 午後 11:07 [ タモリ ]
タモリさん、コメントありがとうございます。
2012/1/8(日) 午前 8:08 [ 記紀いっぱつ ]