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本日はほとんど門脇禎二氏の「古代日本の『地域王国』と『ヤマト王国』上」の
受け売りである。
この本を読んで、日本書紀はこう読めばよいのだ、とあらためて納得した。
応神帝の妃兄媛が里心がついて吉備に帰京した後、
寂しくなった応神帝が後を追って行ったストーリーについては前回書いた。
応神紀では吉備国は元々応神帝の支配下にあることが前提になっている。
応神紀を読んだ時に、
応神帝は何故よその国(吉備国)へ出かけて行って、
その国を分割して親族に分け与えるのだろうと疑問を感じていた。
門脇氏は、このストーリーは日本書紀編纂者が
8世紀の朝廷にとって都合の良い形に作り直しているという。
この頃(5世紀頃)の吉備国は、
史実としては大和朝廷と匹敵するくらいの勢力をもっていた。
吉備国の最も隆盛を極めた時の大王が御友別だった。
おそらく5世紀初めに築造されたとされる
吉備国最大の前方後円墳である造山古墳(全長360m)は
御友別の墓であろうと主張している。
従来の学者は造山古墳はヤマト朝廷から派遣された
吉備津彦の墓ということでほぼ一致しているという。
何でもヤマト朝廷に結びつける癖がここでも出ているという。
2番目に大きい作山古墳(全長286m)は
御友別の長子稲速別の墓ではないかと門脇氏は推定している。
周囲の人にこの話をしたら、「それは新説ですね。」と驚かれたという。
8世紀に藤原不比等が主導して作り上げた日本書紀の記述を
あまり史料批判することなしに学説としている
古代史学界の実態を垣間見るような気がする。
古代史学界の実態はともかくとして、
言われてみると当たり前に感じるほど門脇氏の解釈は鋭く的を得ていると思った。
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吉備
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前方後円墳という日本独自の古墳の様式を、どうとらえるかが難しいですね。
これを「ヤマト式」ととらえると、各地にある前方後円墳の被葬者はヤマト政権から派遣された人や、現地の豪族でもヤマトと密接な関係にある人、ヤマトの協力者というように片付けられます。
単に当時流行した最先端な様式としたらどうでしょう。
古墳築造は限られた技術者集団(渡来系の)でしかできないのなら、各地に同じものがあっても不思議ではないはずです。
被葬者はヤマトに全然関係のない人ということもあり得ます。
2012/7/29(日) 午後 1:41 [ きびの ]
きびのさん、こんにちは。
前方後円墳が「ヤマト式」という根拠はないのでは?
箸墓古墳とほぼ同時期に備前にも備中にも造られていたし、
規模はともかく数では遜色在りません。
前方後円墳だけがヤマト一元主義の拠り所です。
吉備にヤマトから人が派遣されるのは
後世のことではないでしょうか。
2012/7/29(日) 午後 2:23 [ 記紀いっぱつ ]
記紀さん、やっと少し涼しくなりました。
夏の風情は、夕方の涼風にあります。端居という俳句用語です。
むかしは家の前に水をまいて、縁台に座って団扇であおぎながら、世間話ですね。そして、もう一度行水をして蚊帳の中へ、、開けっ放しですね。
さて、吉備の国の古代は大変興味あります。天皇云々はは除外して考察すると、吉備津神社にみられるように、瀬戸内にはかなりの勢力があるように思えます。スサノオと呼ばれた人物と吉備との関係など分かるといいのですが。記紀では推察できないでしょうか。
2012/7/29(日) 午後 7:27
さんせいさん、こんばんは。
私の住んでいる東京郊外も日没後はいくらか過ごしやすくなります。
夜は部屋の窓を開け放しています。
風が吹いてくれると楽なのですが、凪ぎが大敵です。
ヤマト朝廷は吉備の歴史を最も重点的に
つぶしたのではないでしょうか。
曲されて記紀に残る以外は
口頭での伝承が残る程度なのではないかと思います。
近畿天皇家にとって余程都合の悪いことが
数多くあったのでしょうね。
出雲とのつながりは気が付いたら報告します。
2012/7/29(日) 午後 8:33 [ 記紀いっぱつ ]