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[ 記紀いっぱつ ]
2019/5/7(火) 午後 0:00
> 藤色式部さん、こんにちは。
中国の大学に留学している人の話を聞くと、中国人は日本人ほど地図を見る習慣がないそうです。どこか行く時でも目的地までの距離よりも所要時間を重視するとか。
倭人伝にも国と国の間の距離は出ているのですが、皇帝に対してどのくらいの所要日数で到達できるのかを報告する必要もあったのだと思います。
邪馬臺国、どう読むかわかりませんが卑弥呼の国は「臺」の字を使っていたのだと思います。魏では「臺」は皇帝の住むところなど皇帝に関することに使う文字で、夷蛮の国の名前に使うわけにはいかないので『三国志』を書いた陳寿が「壹」に書き直したと考えられます。
したがって邪馬壹国も邪馬臺国も同じ卑弥呼の国で、九州にあったのだと思います。
[ killy ]
2019/5/7(火) 午前 9:14
ブログ「魏志倭人伝」5月6日(月)「29・南至投馬國」では、数年前から行程の理由が記されています。この方の見方も勉強になります。
その理由は【景初二年(238年)十二月】の魏帝の詔書に記載されています。
【悉可以示汝國中人使知國家哀汝 故鄭重賜汝好物也】
國家(魏)は汝の働きに感動(哀)している、故に汝が要望した品を鄭重に賜うなり。
ついては郡より使者を遣わし、汝の國中の人々に贈物の悉くを示す事にする。
つまり【水行陸行60日】と記載したのは、奴國の【二萬餘戸】投馬國の【五萬餘戸】邪馬壹國の【七萬餘戸】の人々に、贈物の悉くを示す為の日数と言うことになります。
一日平均して【約二千戸(1万人)】の人々が、魏の贈物を見学した計算になります。
使者は、この事を魏帝に報告する為に日数で記載したのです。
[ 藤色式部 ]
2019/5/7(火) 午前 8:42
[ 記紀いっぱつ ]
2019/5/6(月) 午後 1:56







