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なぜ「太伯の後」か?
古代史
[ 記紀いっぱつ ]
2019/3/20(水) 午前 9:53
なぜ「太伯の後」か?
古代史
[ 上野利三 ]
2019/3/20(水) 午前 3:30
平安時代の書物である新撰姓氏録に松野連は呉の太伯の後裔夫差の子孫と記録があり、今の熊本県菊池市の松野家の系図にもそういった記述がある。多分呉が滅ぶときに東シナ海に脱出し九州にたどり着いたのだろう。呉を滅ぼした越もまた楚に滅ぼされ四散した。越の一部も九州に落ち延びた。呉と越共に日本に稲作技術や青銅武器を伝えた。北九州福岡県発掘の弥生人骨のDNAが呉越の長江流域の人骨と合致する事。日本神話が長江流域の伝説の構造と一致する事。貫頭衣が越の衣装であり、太陽信仰が長江流域稲作地帯に発祥した点が日本のアマテラスにつながる共通性をもつ事。外に十点程の証明材料をあげうる。卑弥呼の卑や難升米の難などはすべて中国風の姓であったと考えたとき、疑問は氷解する。
斉明天皇の宮は大和ではなかった?
エピローグ
[ 記紀いっぱつ ]
2019/3/13(水) 午前 6:56
> nak*s*ma320*さん、おはようございます。
皇極・斉明を同一人物としたことが書紀の大ウソだとすると、記載された歌の中に矛盾点が隠されている可能性が高い。なぜなら書紀を記した史官に歌を作る才能があるとは思えないからです。出来合いの歌をはめこんでいる。この歌には建王が殯されている「今城谷」のことが出てくるので、斉明との関連が強いわけです。ここに記された6首の歌が斉明が作ったか、作ったことにしたのかはわかりませんが、斉明との関連で作られた可能性は高い。そう考えると、「水門の 潮のくだり 海くだり」は川を下り河口に出て潮流(の下り)に乗って目的の温湯に向かっています。大阪湾の友ヶ島水道から紀伊水道にかけてはほとんど潮の流れはなくとても「潮の下り、海くだり」とは言えません(MIRC潮流予測参照)。潮の下りを感じることができるのは外海ではないでしょうか。西日本では対馬海流か黒潮が考えられます。したがって斉明が出発したのは大和ではないと結論付けたわけです。かといって博多を出発点とできるのかというと対馬海流に乗っていく温湯がどこなのかわかりません。
斉明天皇の宮は大和ではなかった?
エピローグ
斉明天皇の宮は大和ではなかった?
エピローグ
斉明天皇の宮は大和ではなかった?
エピローグ
[ 記紀いっぱつ ]
2019/3/10(日) 午後 6:41
斉明天皇の宮は大和ではなかった?
エピローグ
[ mimippi ]
2019/3/10(日) 午後 1:19
[ 記紀いっぱつ ]
2019/3/6(水) 午後 9:25






