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【百済との関係が強い蘇我氏】
永井紀代子は『蘇我氏と息長氏の修史事業』の中で、古事記の成立は「息長氏の活躍より早い時代の蘇我氏の修史事業に息長氏が潤色をほどこしたのではないかという見当」と述べている。日本書紀の記述を見ると、百済と親密な関係を持つ倭国の中で宣化天皇の時代に突然大臣として登場する蘇我稲目が尾張連と尾張屯倉との関係で活躍を始める。蘇我稲目は欽明天皇の治世下で百済帰化民の王辰爾(船史の祖)の協力を得て事業を遂行する。馬子の代になってからも船史と共に荘園経営に成功していることが記されている。(敏達3年10月条)
【新羅との関係が強い息長氏】
古事記に記された系譜において新羅王子天日矛の子孫である葛城之高額比売命が息長宿禰王に嫁いで息長帯比売(神功皇后)を生んでいる。息長宿禰王は息長氏の祖先あることは言うまでもない。神功皇后は応神天皇を生み応神は五世孫の継体天皇を通じて8世紀の天皇家に直結しているというのが記・紀の考え方である。
【蘇我→息長→蘇我→(藤原)】
以上のことから蘇我氏は百済との関係が強い氏族で、息長氏は新羅との関係が強い氏族という印象が強い。単純に断定するのは危険であるが、蘇我氏―倭国―百済―天智と息長氏―(近江)―新羅―天武の組み合わせが対立概念として存在するのではないか。日本書紀は推古天皇の後継者争いで息長氏系の田村皇子(敏達皇后息長広姫の孫)が蘇我氏系の山背大兄を破り舒明天皇として即位したことを記している。しかし舒明から天智へのバトンタッチに20年以上の時間を要しており、その間の三代の皇位継承も不自然としか言いようがない。中大兄は本当に舒明の嫡子だったのだろうか。ようやく実権を握った天智も即位後わずか4年で崩御している。
天地崩御後、壬申の乱で一度は覇権を握った息長氏系(天武)は天武崩御後の天智の娘である持統(母は蘇我氏出身)のクーデターで後継者の大津皇子を殺害されて天智系の復権を許すことになる。8世紀になると、息長氏の覇権を持統と共に打破した藤原氏が実質的に権力を握っていくことになる。
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【日本書紀が描く行き当たりばったりの皇位継承】
日本書紀には皇位継承に対する定見がない。古事記の天皇系譜をなぞった推古までは嫡男による継承とか、兄弟継承といった継承の考え方がある程度明確になっている。ところが古事記に記されていない舒明以降になると、突然皇女もない皇后が即位する(皇極)。さらに皇極は前例のない譲位を行う。後継は弟の軽皇子(孝徳)。「皇子」と記されているが天皇の子供ではない。前例のない即位が続く。孝徳が崩御すると前天皇の皇極が再度即位する(斉明)。これも前例がない。三代の異例の即位の後舒明の嫡子とされる中大兄がようやく即位する(天智)。
【主眼は天武以降の皇位継承の前例作り】
これらの即位が全て造作だとすると、説明がつくような気もする。皇極の即位は持統の、弟の即位は天武の、譲位は持統から文武への、前例作りだったと勘繰ることができる。皇極の重祚は孝謙の重祚の前例となるが、日本書紀完成後に書き換えられたとしなければならないのでこれは考えすぎ。
古事記の天皇系譜が正統性を意識して出来上がっているのに比べると、日本書紀が独自に編纂した系譜(舒明以降)にはほとんど正統性という意識が感じられないのである。
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壬申の乱について日本書紀は天智天皇崩御後の天智の弟と息子による皇位継承争いだったことにしようとしている。天智が弟の大海人皇子ではなく息子の大友皇子を後継に選んだために身の危険を感じた大海人が吉野に隠遁して天智からの攻撃を避け、崩御後に決起して大友率いる近江朝廷を滅ぼした。日本書紀が描く壬申の乱の要約である。
天武朝になって大きく変わったことがいくつかある。
ひとつは朝廷の場所が近江から飛鳥に移ったこと。皇位継承争いであるならば大友皇子一派を駆逐した後の近江宮をそのまま使うという選択肢があってもよかったはずである。
二つめは新羅との関係強化。天武は天智が九州から近江に移住させた百済系渡来者を重用せずに新羅との関係強化に注力している。新羅からの使節の来朝も遣新羅使の派遣回数も天武紀には非常に多く記されている。
三つめは八色の姓である。天智朝までの重臣と全く異なる氏族が最高位の「真人」を賜姓している。即位する前から天武を支持していた氏族がラインアップされたと考えざるをえない。天智配下の氏族ではないので日本書紀には登場しなかったと考えられる。皇親氏族(公の姓で記されていることから)が真人となったという説があるようだが根拠も説得力もない。
天智は近江京に遷都するに当たり、勢力基盤を異にし、近江を地盤とする天武に娘4人を嫁がせることによって婚姻関係を結び味方につけた。
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【なぜ息長氏の修史事業が古事記に反映されたか】
永井紀代子は『蘇我氏と息長氏の修史事業』の中で、
「息長氏関係の正史への史実に基いた記載はやはり敏達天皇と息長真手王の女比呂比売との婚姻の記載にはじまると思われる。そして、両者の間に生まれた忍坂日子人太子の子舒明天皇(オキナガタラシヒロヌカ)の時代に息長氏の中央貴族としての活躍が推測され、この時代に息長氏関係の系譜や伝承が記紀の前駆をなす一連の修史事業に組みこまれ、この修史を舒明の子の天武が古事記の原形として継承していったものと思われる。」
と述べている。
開化記で日子坐王に嫁ぐ天之御影の女息長水依比売の子孫系譜の中に息長帯比売(神功皇后)がいることや、允恭天皇の妃に息長氏出身の忍坂大中津比売(安康天皇、雄略天皇の母)がいることは古事記編纂時における息長氏の造作の可能性があるので史実と考えるのはむずかしい。息長氏の修史事業の中で何らかの史実に基いたものであると考えうるのは敏達天皇の皇后(息長)比呂比売以降であるとする永井の主張は説得力がある。比呂比売所生の日子人太子からその子である舒明を通じて日本書紀の描く7世紀の世界に結びつくからである。それにしても天武朝で制定された八色の姓で最高位の真人を賜姓した息長氏がなぜ神功皇后を息長帯比売と「息長」の名前を付けることができたのだろうか。その疑問に対しては、舒明天皇(息長タラシヒロヌカ)もその息子である天武天皇も息長氏そのものだったからではないかという可能性を考えざるをえないのである。
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【ホムダワケ、ホムチワケ、ホムツワケ】
ホムダワケ(古事記では「品陀和氣命」、日本書紀などでは「譽田天皇」)は応神天皇のこと。ホムツワケ、ホムチワケ(古事記に「品牟都和氣命」、「本牟智和氣御子」:同一人物、日本書紀では誉津別命)は垂仁天皇の皇子の名前である。
【応神から継体への系譜について】
永井紀代子氏は『蘇我氏と息長氏の修史事業 釈日本紀所引上宮記系譜の“凡牟都和希王”をめぐって』の中で、吉井巌氏が『ホムツワケ王』の中で上宮記逸文の継体天皇が応神天皇の五世孫であるとする古事記の記述を補う系譜について、応神天皇のことを指している「凡牟都和希王」はホムツワキ王と訓むべきで、ホムダワケとはならないと指摘していることを取り上げている。古事記には応神記の末尾に若野毛二俣王が母の妹百師木伊呂辨またの名弟日売真若比売命との系譜(若野毛二俣王―大郎子またの名意富富杼王、忍坂大中津比売命、他五名)が記載されている。これは上宮記逸文記載の「凡牟都和希王」から乎富等大公王(継体天皇)に至る系譜を記載した原資料から「息長氏の作為」によって古事記に改ざんされて記載されたものとしている。上宮記逸文の若野毛二俣王の母弟日売麻和加(記には弟日売真若比売命)と妻母々恩己麻和加中比売(記には百師木伊呂辨)が「記では若野毛二俣王の妻の名に集中され、一人の女性の名となっている」ことなどを指摘し、結論として次のようなことをあげている。
①若野毛二俣王の母と妻とにかかわる記の系譜は息長氏の作為によって成長したものである。
②若野毛二俣王の母と妻とにかかわる系譜の原形は、記紀上宮記共に同じと判断してよい。
③若野毛二俣王の父にはホムタワケ王とホムツワケ王との二つの伝承があった。
④ホムタワケ(応神)を定立したのは息長氏の作為によるものであり、その定立によって、若野毛二俣王の父としてのホムツワケ王の系譜的地位は失われた。
⑤ホムツワケ王を崇神王朝の後継者として創造したのは蘇我氏である。(⑤については別論文で詳述しているという。)
【息長氏が応神と継体を結び付けた】
「乎富等大公王(継体天皇)」に至る「凡牟都和希王」(あるいはホムダワケ)からの系譜を記した原史料を息長氏が応神天皇と継体天皇を五世孫の関係に結びつけるために改ざんして古事記に記したということであろう。
もちろん「凡牟都和希王」から「乎富等大公王(継体天皇)」に至る上宮記の系譜自体の真偽については吟味する必要があるが、息長氏がその系譜を利用して継体が応神の五世孫であることを古事記内に記したことの中に古代史の真相に迫る要素が含まれていると思う。息長氏にとって応神と継体の間の断絶を埋める必要があったということである。
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