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昭和48年、山崎正和と丸谷才一が直木三十五の実弟植村清二(東洋史学者)を
迎えて織田信長をテーマに行った対談が「雑談歴史と人物」に載っている。
【はじめて中部地方が歴史の表舞台となった。】
戦国時代になって、にわかに中部地方が歴史の表舞台になったことに
注目している。
信長、秀吉、家康、3人とも中部・東海の出身。
「(中部地方は)前にも後にもあのあたりが歴史の表舞台に
登場することはありません。」(山崎)
「関東型の幕府官僚的な人間でもなく、関西型の宮廷貴族的な人間でもない。
強いリーダーシップが求められた時代。」(山崎)
※再選された河村市長はリーダーシップ型を引き継いでいるのか?
【信長の時代を超えた近代合理主義】
「宣教師が残したものを読みますと、
(信長は)部下の言うことを聞かない大将だった。」(山崎)
その信長が、
「桶狭間の戦いの時の作戦では家来の進言を入れているんですね。」(丸谷)
「梁田出羽守政綱というのが、義元の足が桶狭間で延びている。
そこを払えば必ず勝つ、という意見だった。」(植村)
信長は政綱の意見を採用して奇跡的な勝利をつかむ。
「政綱は戦いが済むとすぐに4千貫の土地をもらっている。
ところが、今川義元の首をとった毛利新助なんかは
ごくわずかな賞しかもらっていない。」(植村)
敵将の首をとった部下よりも作戦の構想を立てた人間に
大きな賞を与えるというのは信長の持つ近代的合理主義で
ここに戦国を勝ち抜く資質を見ている。
また植村は信長の「商業に対する目のつけ方」に注目している。
「新しくとった土地では関所を撤廃し通過税を廃している。
楽市・楽座もそうですね。」
信長は経済政策に優れた政治家だったと指摘している。
【信長は一筋に京都を目指した。】
信長の成功の秘訣は、
「信長が京都一筋に目指して進撃するのが結果的に良かった。」(山崎)
北条早雲や上杉謙信が関東にも未練を残していたことに比べて、
「京都だと決めて一筋に動いた信長の見識があった。」(山崎)
【信長の二面性】
信長の行動の二面性に話は及ぶ。
一方では文化の政治的な使い道をわきまえていて、
他方では部下に対して狭量な態度をとる、二面性をもっている。
その点を分析すると、信長のような「真率な個性でさえも、
当時の文化尊重という気風は重んじなければならなかった。」
と丸谷がまとめると、植村から、
「後に信長は公家になるわけです。秀吉も関白になって公家になる。」
その傾向が強い時代でかつて黒坂勝美が『京都武家時代』と名付けたという。
その伝統を家康がきれいにぶち壊して武家の天下を確立した、
と植村は述べている。
【信長の残忍性に対する評価】
叡山焼き打ちや一向一揆に対する信長の行った
徹底した弾圧について植村は、
「現在のヒューマニズムで裁くのは誤りですね。」
と述べている。
「戦国時代の人間というものは抵抗すればこうなるぞということを
見せつけなければだめなんです。」
残酷な一面とは裏腹に、京都へ上がった時に、
「一銭切という命令を出して、一文でもとった奴は斬罪に処するとした。」
軍令を厳しくして都の秩序を守った。
「太平洋戦争の時の日本軍と比べると、軍律は数段行き届いていた。」(丸谷)
【戦国時代で一番の美人は?】
「戦国時代で一番の美人は誰ですか。」
という丸谷の質問に対して、植村は、
「お市の方の画像が高野山にあって、我々の大先輩の
星野恒先生(国史学者、新潟県出身)がその画像を見て、
『今なお楚々として人を動かす』と書いた。」
というほどでここは定説にしたがって、
お市の方ということにしておきたい。
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