応神天皇についての基本的な知識「古事記・日本書紀事典」(武光誠・菊池克美著、2006年、東京堂出版)で、
『応神天皇』を引いてみる。
「紀」に誉田別尊(ほむたわけのみこと)、「記」に品陀和気命(ほむだわけのみこと)、大鞆和気命などとある。
「記紀」によれば、仲哀天皇と神功皇后の間の子で第15代の天皇である。
筑紫で生まれ、神功皇后が天皇の異母兄である麛坂王(かごさかのみこ)、
忍熊王(おしくまのみこ)を討って大和に入った後立太子する。
摂政をした神功皇后の死後即位し、
治世には、帰化人の活躍、中央の耕地の開発などの記事が見える。
在位41年、110歳(「記」では130歳)で亡くなったという。
崇神以来の三輪王朝に替わり、河内から出て新王朝を建てたという説、
北九州の騎馬民族国家が畿内に追い出した時の天皇だという
騎馬民族説による解釈など、問題を含んだ天皇である。
応神紀の注では、「常陸風土記・播磨風土記に品太天皇、
釈紀十三所引上宮記に凡牟都和希、
継体六年十二月条・同二十三年四月条・宣化元年五月条に胎中天皇などとあり、
また軽島豊明宮御宇天皇ともいう。
誉田は褒武多(ほむた)と読み、鞆の古語としている。
記に品陀真若王(皇后中姫の父)の名も見えるからホムタは地名か。
これまで美称を連ねた天皇の名が、ここで一転して簡単なものになるのは、
王朝が交替したためとする推測説もある。
日本書紀(岩波文庫版)が注で推測説の存在を紹介しているのは、
応神帝についての伝承が理解の範囲を超えていることが多いことを示している。
また日本書紀(岩波文庫版)補注8−1には
応神天皇はその御名などからいっても実在性の確かな天皇であるが、
母の神功皇后は神話・伝説的で、
応神はその征討中の胎中天皇として出生を神秘化している。
これはなぜか。
応神の系図を仔細に検討すると、
景行→五百城入彦→品陀真若の娘の仲姫を応神が娶ったという
古い形が存在したと考えられるが、
この場合、応神は外から入って皇統を継いだことになる。
かかる観点に立つ時、応神天皇は、
4世紀中葉―5世紀初頭の対朝鮮経営の中で出現した
一つの新しい王朝の始祖であり、
旧辞又は記紀は、その故にこれを神秘化したのではないか
という発想が生じてくる。
旧辞又は帝紀は、この事実を隠蔽するためばかりではなく、
応神の出現を荘厳化するためにも、
玄界灘の海神の祭儀における若神の誕生として
その出生を語ろうとしたのではないだろうか。
またこの観点からすると、
応神が筑紫で生まれて、朝廷の2王を倒して皇位に就くという話も、
決して物語の付加的部分ではなく、
却って本質的な要素であるとみることができる。
一つの仮説として私説をかかげておく。
この私説は井上光貞氏の論考のようである。
権威ある書籍の中にこのようなリベラルな考え方が述べられることは
日本古代史の場合あまり見受けられないので
敢えてそのまま引用した。
この部分に関しては大筋で理解することができる。
しかしここでは仲哀帝や神功皇后がどこの誰だったかという点については
触れられていない。
麛坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)についても
実態は闇の中であることに変わりはない。
(To be continued)
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2011年07月18日
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