のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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百済本記 53 鉄屋は長安寺に在り。

七月に倭国と百済の連合軍はは新羅に大敗を喫したが、日本書紀ではそのすぐ後の八月に高麗を攻めて王の居る城を攻略している。
おそらくこれは欽明十一年の出来事を二十三年条に挿入したのだろう。
新羅に負けっぱなしでは恰好がつかないのでバランスを取ったのだろうか。
高麗の城を占領し城にあった宝物を戦利品として倭国に持ち帰っている。
その中に、
「鉄屋(くろがねのいへ)は長安寺にあり。是の寺、いずれの国に在りということを知らず。」
と出てくる箇所がある。
「鉄屋」と呼ばれる戦利品を長安寺にもちこんだが、日本書紀の編纂者は、
『私は長安寺がどこにあるか知りません。』
とあえてしらを切っている。
この箇所について、
古田武彦は「邪馬壹国の論理」で次のように指摘している。
 
『日本書紀』欽明記に不思議な記事がある。
〇(欽明二十三年八月)(天皇は狭手彦(さでひこ)を遣わして、高麗を伐たしめ、その戦利品として
「鉄屋(くろがねのいえ)」をえた、との記事のあとに)
〈A〉鉄屋は長安寺に在り。
〈B〉是の寺、何(いず)れの国に在りということを知らず。
 
 いかにも「長安寺を知らぬやつは、もぐりだ」
 と言わんばかりの口ぶりだ。(A −−旧注)
 ところが、『書紀』の編者は一切、
 その寺について知る所がないのである。(B −−新注)
 これはどうしたことだろう。
 ところが、
 「朝倉社恵蘇八幡宮・・・社僧の坊を朝倉山長安寺といふ。(注)朝闇寺 なるべし」(大宰管内志)
 
 このように、筑紫の朝倉郡には問題の「長安寺」があったのだ
 (長沼賢海著『邪馬台と大宰府』参照)。
 どうやら、わたしたちは筑紫のいたる所に九州王朝の遺跡を眼前にしなが 
   ら、かたくなにこれに目をつぶってきたのではあるまいか。
 
古田武彦はこの時期(6世紀中葉)に、百済と連合していた倭国は九州王朝であり、
ここに出てくる長安寺の所在が筑紫の朝倉だったことはその証拠になると言っている。
 
この部分をざっと訳してみると次のようになる。
 
(欽明二十三年、 562年)八月、天皇、大将軍大伴連狭手彦(さてひこ)を遣わして、
兵数万を率いて高麗を攻撃させた。
これは百済の作戦で百済と共に高麗を攻略した。
高麗王は墻(かき)を飛び越えて逃げた。
狭手彦は勝った勢いで宮中に入り、宝物、七織帳(七色の糸で織った錦帳)、鉄屋を奪って(倭国に)帰還した。
旧本に云はく、鉄屋は高麗の西の高楼の上に在り。
織帳は高麗の王の内寝に張れりといふ。
七織物を天皇に奉献した。
甲(よろひ)二着、金飾の刀二口、青銅製の鐘三口、五色の幡二竿、美女媛媛は名なりとその従女を蘇我稲目宿禰大臣に送った。
大臣は二人の女性を召しいれて妻として軽にある曲殿に住ませた。
鉄屋は長安寺に在り。是の寺、何の国に在りといふことを知らず。
一本に云はく、十一年に、大伴狭手彦連、百済と共に、
高麗王陽香を比津留都(ひしるつ)に駆ひ却く(おひしりぞく)といふ。
冬十一月、新羅は倭国に使者を派遣し、調賦を貢った。
使者は新羅が任那を滅ぼしたことを天皇が激怒しているのを知り、帰国を申し出ることができなかった。
罪に問われることを恐れて本国に戻らなかった。
その従者たちも同様に倭国に残り、摂津国三嶋郡埴廬(はにいな)の新羅人の先祖となった。
 

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