のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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百済本記 55 多元的王朝の存在の傍証

このところの記事は、「日本書紀の中の百済」、『百済本記』というタイトルとはそぐわなくなっている。
欽明紀では百済中心の記述から、終盤になって高麗の帰化人に関する記述に変わる。
百済と倭国の連合軍によって王城が攻略されたということが記された後、高麗人の帰化説話が始まる。
戦乱によって荒らされた国土をさけて海を渡る人々が増えたのかもしれない。
本日取り上げる説話の中に漂着した高麗の使者に対して越の国の国造が偽って天皇を名のる件(くだり)が出てくる。
垂仁紀で都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)がたどり着いて、穴門であった人が国王を名のったという話が出ているが、この説話と類似している。
日本書紀を編纂した8世紀初頭の考え方からすると、「偽って国王を名のった。」と言わざるを得ないだろうが、都怒我阿羅斯等の頃はもちろんだが、高麗の使者がやってきた6世紀中葉の日本列島は、近畿天皇家や九州筑紫王朝が統一王朝を築いていたのではなく、多元的に各地に王国らしきものが存在した時代だったかもしれない。
したがって、偽って国王を名のったのではなく、それなりの意味で穴門にも越の国にも、国王は存在したと考えることは可能だと思う。
 
欽明三十一年(570年)夏四月、天皇は泊瀬柴籬宮に行かれた。
越人江渟臣裙代(えぬのおみもしろ)が京に詣でて奏上し、「高麗の使人が風と荒波に遮られて進路を迷い目的の港に行くことができず、波のまにまに漂流を続け岸に着いたので、郡司が保護した事を報告します。」と言った。
天皇は詔して、「私は即位してから今日に至るまでで、高麗の使いが初めて倭国の岸にやってきた。漂流して苦しんだようだが、何とか命を失わずに済んだようだ。天皇の良いはかりごとは広く行き渡り、高い徳はいよいよ盛んで、恵みの教化はあまねく行われ、天皇の広大な恩は至って遠くまで届くものなのではあるまいか。山背国相良郡に館を建てて、迎える準備を整えて厚くもてなしなさい。」と述べた。
是月に天皇は泊瀬柴籬宮より、東漢氏直糖児(やまとのあやのうぢのあたひあらこ)、葛城直難波(かづらきのあたひなには)を派遣して高麗の使いを迎えに行かせた。
五月には、膳臣傾子(かしはでのおみかたぶこ)を越に派遣して、高麗の使人に対するもてなしをさせた。
大使(高麗の使人)は膳臣が天皇の使者であることを知り、道君(国造)に対して、
「あなたが天皇でないことは私が疑いを持ったとおりでした。あなたは膳臣に対して、伏して拝礼をしていました。天皇の臣民であることがいよいよ明らかになりました。以前に私をだまして調貢品を奪って、自分のものにしてしまいましたがすぐに返してください。」
と言った。
膳臣はそれを聞いて、その調貢品を探させて使人に返した。
京に戻ってそのことを報告した。

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