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神功皇后紀から登場する葛城襲津彦を描くことは、
日本書紀の大きなテーマの一つではなかったかと考えている。
葛城襲津彦自身が出てくる場面を簡単に振り返ってみよう。
●神功摂政紀五年条 襲津彦は新羅訥祗王の弟微叱許智を
新羅へ召還するときに同行するが、
新羅の使者に騙されて微叱許智を逃がしてしまう。
●神功摂政紀六十二年 朝貢を怠った新羅を攻撃するために海を渡るが、
港に出迎えた新羅の美女に惑わされて倭国と親しい加羅を攻撃する。
百済記に出てくる「沙至比跪」に書紀は襲津彦を当てている。
百済記では沙至比跪は天皇の怒りを恐れて、
石穴に入って自害したことになっている。
●応神紀十四年 弓月君は百済から120県の民を連れて、
倭国に帰化しようとしたが、途中新羅の妨害で加羅国に足止めされていた。
葛城襲津彦は彼らを迎えるために加羅に渡ったが、
3年経っても帰ってこなかった。
●仁徳紀四十一年 百済に派遣された紀角宿禰に対して、
百済王族の酒君は言うことを聞かなかったので、
百済王に抗議すると王は酒君を捕縛して襲津彦に付けて進上してきた。
しかし襲津彦は酒君を逃がしてしまった。
神功摂政紀五年から仁徳紀四十一年まで4回にわたって、
葛城襲津彦のヘマな出来事が記述されている。
146年の間役に立たない外交官としての配役されていることになる。
さらに允恭紀五年には襲津彦の孫玉田宿禰は、
殯宮大夫であるにもかかわらず、
前帝の反正帝の殯に列席せずに
自宅で男女を集めて酒宴を行っていた。
天皇の怒りを買って捕えられて殺されたという。
このように襲津彦には不始末な出来事がついて回る。
襲津彦の娘磐之姫は仁徳帝の皇后として、
履中帝、反正帝、允恭帝の三人の天皇の母となる。
履中帝の子の市邊押磐皇子は允恭帝の子の雄略帝に殺害される。
允恭帝の子である安康帝は皇后中帯姫の連れ子眉輪王に殺害される。
世に言う「眉輪王の変」である。
眉輪王は葛城氏の円大臣の所に逃げるが、
雄略帝によって攻め滅ぼされて、葛城氏は滅亡する。
神功皇后摂政紀の葛城襲津彦の不始末で始まる一連の流れは、
葛城氏が雄略帝によって滅ぼされる「眉輪王の変」までつながっている。
日本書紀は編纂時点で対立していたり、以前拮抗していた勢力などを
蔑んだり、侮辱した表現を使うことがある。
葛城襲津彦以来の葛城氏に関する記述は、
葛城氏が近畿天皇家にとって記憶に残る近過去において、
強力な勢力だったことを表していることになるのではないだろうか。
ある時期、あるエリアに葛城王朝と言われるようなものがあって、
葛城氏が君臨していた時代があったのかもしれない。
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2012年01月24日
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