のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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天平八年(735年)の遣新羅使は、
新羅との関係が急速に悪化した中で行われたものだった。
8世紀の日本と新羅との関係を見ると、
唐と新羅が緊張した状態を続けていたこともあり、
新羅は背後の日本と安定した状態を求めていた。
日本は新羅のそのような事情を認識し、弱みに付け込んで
属国としての朝貢を求めていた。
8世紀に入って朝鮮半島北部からロシア沿海州にかけて
勢力を伸ばしていた渤海が唐と争うようになると、
唐は新羅との関係良化を求めた。
唐との緊張関係がなくなれば、
新羅は日本へ朝貢する必然性がなくなる。
天平七年(734年)正月日本に来た新羅使は、
国号を「王城国」に改めたと一方的に通告してきた。
新羅を属国とみなしていた日本はそれを認めず
新羅使を追い返した。(続日本紀)
その翌年に派遣されたのがこの遣新羅使の一行だった。
新羅に再度朝貢を要求する使者だったのだろうか。
結果的には前年の新羅使が日本で受けた仕打ちの
しっぺい返しを受けることになってしまった。
天候に恵まれず難航海の末やっと到着したにもかかわらず
使命を果たすことなく門前払い同様の扱いを受けたようだった。
帰路、大使の阿倍継麻呂は対馬で失意のうちに病没する。
この遣新羅使たちが媒介となったかどうかは定かではないが、
これ以降日本、新羅共に天然痘の流行に襲われることになる。
日本では新羅から感染したといい、
新羅では日本が感染源だということになったらしい。
今も昔も、何でも相手を悪く言う関係は変わっていない。
 
遣新羅使の辿った航路は正史には記載されていない。
その意味でも万葉集に残された145首の和歌は
航路を明確に記載しているということにおいて、
歴史的にも大きな意味を持っていることになる。
天候に恵まれなかったとはいえ、
6月に出発した一行は旅の途中で年を越したことが記されており、
往復に半年以上を要したことがわかる。
出発前に紅葉する頃には帰ってくると家族に言っていることから、
順調にいけば3〜4か月で往復することができたのだろう。
4,5世紀ににおいて百済や新羅と頻繁に行き来していた倭国は、
「百済三書」の記述から外交関係のスピード感を考えると、
倭国は近畿天皇家の王朝ではないように感じる。
百済が新羅の侵略に対して倭国に援軍を求めても、
使者が到着するまでに片道2か月以上もかかっていたら、
軍をまとめて到着するまでに1年くらいはすぐに経過してしまうだろう。
同様に倭の五王についても、
2〜3か月かけて海を渡って、
倭王武の上表文にあるように、
「海北を平らげる」ことなどできるのだろうか。
遣新羅使たちの歌は、
歴史の解釈にも状況証拠を提供してくれている。

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