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古田武彦氏は「関東に大王あり」の中で、摂政について述べている。
「摂政」という概念が最初に使われたのは、「史記(周本紀)」だという。
『公(周公)乃ち政を当国に摂行す 』(摂行政当国)がもとになって「摂政」となったとしている。
摂政とは、「皇帝(天皇)が幼かったり、女性であったりする時に親縁の実力者が代わって実権を握ること」が定義らしい。
摂政は「佐治天下」する。つまり天皇を助けて天下を治める。
「佐治」という言葉は有名な「魏志倭人伝」にも出てくる。
女王卑弥呼の弟についての記述である。
卑弥呼は年をとっているが婿はいないという記述の後に、「有男弟佐治国」弟がいて卑弥呼を助けて国を治めている、と書かれている。
記録に残っている限りでは、日本列島最初の摂政だろう。
摂政で最も有名なのは聖徳太子ではなかろうか。
義務教育の社会科で日本人なら誰でも習う。
聖徳太子は記・紀に登場する最初の女性天皇である推古天皇の摂政だった。
日本書紀岩波版の補注には、
「本居宣長(記伝)によると、確かな史実としては聖徳太子の摂政が初見。」
とある。
宣長は倭人伝を読んでいなかったのだろうか。
「帝説」には推古帝の時には、聖徳太子(上宮厩戸豊聡耳命)と蘇我馬子(嶋大臣)は
共に天下の政治を手伝った、とある。
その後、孝徳天皇、斉明天皇両代の中大兄皇子、天智天皇の代の大海人皇子、太政大臣になってからの大友皇子、が摂政の例として挙げられている。
聖徳太子以来、7世紀を通じて皇太子またはこれに準じる地位にある皇親が国政を総理する慣行が続いた、らしい。
藤原不比等は皇親ではないが、実質的には持統天皇時代の摂政だったのではないだろうか。
となれば、年の若い文武天皇、女性の元明天皇、元正天皇の時代も引き続いて30年ほどの間ほとんど摂政と変わらない立場で、朝廷内で「佐治天下」を行っていた。
その間不比等は大宝律令、養老律令を完成させて、律令に基づいた政治を志向し、日本書紀の編纂を通じて天皇制の正当化を確立しようとしたのだろう。
日本書紀で最初の摂政とされている聖徳太子は、首皇子(後の聖武天皇)の立太子のために前例として、皇太子とされているという説を聞いたことがある。
(聖徳太子の時代に皇太子制度はなかった。)
その通りかもしれないが、不比等が女帝を助けて、実質的な摂政である自分の立場を正当化するために、日本書紀の英雄聖徳太子を、推古女帝の摂政という立場に描いたのではないかと考えている。
藤原不比等の行った事績を聖徳太子と比較してみようと思う。
(To be continued)
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2012年05月09日
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