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神功皇后遠征記事の後に「一に云はく、」として、
新羅王宇流助富利智干(うるそほりちか)が、
「内官家として、絶ゆることなく朝貢らむ。」と出てくる。
この説話は三国史記の列伝に出ている干老伝と関連しているらしい。
干老は沾解王(在位247〜262年)七年、
倭王を侮辱したため天皇の怒りを買い火あぶりに処されたという。
異伝も残されている。
倭国遠征軍によって殺された新羅王の妻が
新羅に残った倭国の使臣を殺し
夫の柩の下に埋めて上下関係をあらわしたという。
天皇が怒って兵を起こすと新羅はその妻を殺して謝罪したという。
神功皇后紀五年には、
遠征で人質となった皇子返還のため
新羅王は使者を倭国に派遣して朝貢したとある。
神功皇后紀は後半になると「百済記」からの引用が増えてくる。
神功皇后四十七年夏四月、
百済の使者が新羅の使者と共に朝貢してきた。
朝貢物を見ると、
新羅からの物は優れたものが多いが、
百済からの物は劣悪だった。
事情を聴くと、
百済の使者が途中新羅に捕えられて朝貢物を奪われ、
新羅の使者が持ってきたものはその時奪われたものだということだった。
とってつけたような話である。
この話に象徴されるように日本書紀は百済びいきで、
新羅を悪く言う立場を貫いているようだ。
書紀編纂を指揮した藤原不比等が
百済からの帰化人の末裔と言われる田辺史家で
養育されたことが影響していると思われる。
また書紀の編纂者の中に
7世紀末ごろに百済から帰化してきた人たちが
多くいたためとも考えられている。
神功皇后紀には百済との同盟関係の中で、
朝貢という言葉が使われている。
倭国と共に七国・四邑を平定した百済王は、
倭国将軍の千熊長彦と辟支山と古沙山に登って同盟を誓い合う。
百済の肖古王は、
「常に西蕃と称して、春秋に朝貢らむ。」と言ったという。
神功皇后紀五十一年には、
百済との関係に満足している神功皇后が、
太子(後の応神帝)と武内宿禰に対して、
「朕が交親する百済国は、是天の致へる所なり。
人に由りての故に非ず。玩好、珍物、先より未だ有らざる所なり。
歳時を闕かず、常に来て貢献る。
朕、此の款(まこと)を省るに、毎にもて喜ぶ。
朕が存けらむ時の如くに、敦く恩恵を加へよ。」と言った。
神功皇后紀五十二年秋九月には、
百済から七支刀一口、七子鏡一面、及び種々の重宝が送られた。
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崇神紀に出ている最初の外交記事が「任那からの朝貢」だった。
その後海外からの朝貢は神功皇后紀まで現れない。
その間、景行紀と仲哀紀に国内の事柄として「朝貢」が記されている。
「(景行)十二年の秋七月、熊襲叛きて朝貢らず。」
「(仲哀二年三月)熊襲叛きて朝貢らず。」
この二つの熊襲の話は共通点が多く、
元々あった一つの話を書紀の編纂者が
景行紀と仲哀紀の2箇所に組み込んでしまったと思われる。
おそらく九州王朝の王者が隣国の熊襲を征討した時の話を
書紀が借用してしまったのだろう。
その辺りのことは古田武彦氏の名著「盗まれた神話」に詳しい。
外交記事としての朝貢は、
神功皇后が新羅遠征に向った時に降伏した新羅王が、
「年毎に男女の調を貢らむ。」とある。
男女の調とは、
「男の弭調(ゆはずのみつき)」と「女の手末調(たなすゑのみつき)」。
男の弭調は獣肉・皮革等の狩猟生産物のこと。
女の手末調は絹・布等の手工業生産物。
(To be continued)
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