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神功皇后紀で百済王が「春秋に朝貢らむ。」
と言ったにもかかわらず、
応神紀に百済からの朝貢記事は見当たらない。
特筆するほどのことではなくなったということなのだろうか。
日本書紀の編纂の不連続性や不自然さを感じざるを得ないところだ。
応神紀は定番の妃や皇子たちの記述の後に、
先ず蝦夷からの朝貢が記述されている。
崇神帝、仲哀帝の頃は熊襲が国内最大の敵だったようだが、
応神帝の時代には東国の蝦夷が無視できない存在になってきたようだ。
日本武尊の東征は完全なものではなかったのだろう。
「(応神)三年冬十月、東の蝦夷、悉に朝貢る。即ち蝦夷を役ひて、厩坂道を作らしむ。」
この記事の直後には各地で反乱を起こす海人たちを平定する話が続く。
応神帝によって国内が統一されたという建前を通そうとするものか。
厩坂はこの頃朝鮮半島から良馬が送られてきたことを示す名称で興味深い。
応神紀にはもうひとつ面白い朝貢記事が掲載されている。
「(応神)二十八年秋九月、高麗の王、使を遣して朝貢る。
因りて表上れり。其の表に曰はく、『高麗の王、日本国に教ふ。』といふ。
時に太子菟道稚郎子、其の表を読みて、怒りて、
高麗の使を責むるに、表の状の礼無きことを以てして、即ち其の表を破つ。」
高麗(=高句麗)からの初めての朝貢記事である。
高麗は倭国よりも上位に立つ形で関係を結ぼうとしたのだろう。
その態度に敏感に反応したのが
応神帝が最も信頼を寄せて
後継者に指名していた太子菟道稚郎子。
菟道稚郎子は百済から呼び寄せた王仁博士に漢籍を学んでおり、
高麗からの書簡の意味を十分に理解して
的確な反応を示したといえるだろう。
余談だが、日本書紀の一つの特徴として、
皇太子の重要性を強調する点があげられる。
聖徳太子はその典型的な例で、
中大兄皇子も皇太子として描かれている。
皇太子制度は8世紀になってからの制度と言われているので、
8世紀の制度を当てはめた記述ということができる。
日本書紀編纂期に首皇子を皇太子にしなくてはならない事情があり、
あえて強調されたものと考えられる。
ここでは「太子」という言葉が使われているが、
実質的には皇太子で日本書紀にあらわされている
最初の有能な皇位後継者として菟道稚郎子は登場している。
この説話が持つ意味は、
日本書紀編纂期の日本と新羅の微妙な勢力争いを
反映していることにあるのかもしれない。
ここでは当時使われているはずがない
「日本国」という言葉があえて使われていることに真意が込められている。
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