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日本書紀には良い朝貢と悪い朝貢が記されている。
概して、百済からの朝貢は誠意をもった良い朝貢で、
新羅からの朝貢は倭国に対する悪意が裏に潜む悪い朝貢として
描かれる場合が多いようだ。
仁徳十一年冬十月に淀川の治水工事の話がある。
現在の枚方市伊加賀から寝屋川市池田辺りにかけての地域に
「茨田(まむた)堤」を築く工事のことである。
何度築いてもすぐ崩れてしまう箇所が二か所あったという。
天皇が夢の中で神の託宣を受け、
武蔵人強頸(こはくび)と河内人茨田連衫子(まむたのむらじころものこ)を起用し、
二人の活躍で難工事は行われて、堤は完成したという。
武蔵人強頸は自ら人柱となり川の流れに身を投じた。
河内人茨田連衫子は川の神との知恵比べに勝って
茨田堤の完成にこぎつけた。
その両名の名をとってその二か所をそれぞれ
「強頸断間(こはくびのたえま)」、
「衫子断間(ころものこのたえま)」と呼ぶという。
堤の名前の由来説話である。
その説話の直後に朝貢記事がある。
「是歳、新羅人朝貢る。則ち是の役に労ふ。」
朝貢に来た新羅人を堤の難工事に労役させたという。
ひどい話である。
もしこれが史実だとしたら倭国と新羅は戦争に突入していただろう。
日本書紀編纂者の新羅に対する悪意が見て取れる一説になっている。
この後すぐに高麗国からの朝貢記事が出ている。
「(仁徳)十二年秋七月、高麗国、鉄の・盾鉄の的を貢る。」
この条は次の条項につながっていく。
「(仁徳)十七年、新羅、朝貢らず。」
十二年に高麗から送られた鉄の盾・的は固く
誰も射通すことができなかった。
その中で、
「的臣の祖盾人宿禰のみ鉄の的を射て通す。」ことができたため、
的戸田宿禰の名を賜った、
という的臣の祖先説話である。
十七年の新羅が朝貢を怠ったという条は、
的臣の祖戸田宿禰と
小泊瀬造の祖賢遺臣(さかのこりのおみ)が
新羅に脅しをかけると、
新羅は恐れて船八十艘分の貢物を献上してきた、
という話につながっている。
いずれも的臣の祖先説話が用いられているようだ。
日本書紀岩波版の注では、
池内宏は「高句麗は当時強盛な敵国で
朝貢などするはずがなく」、
新羅朝貢記事も「記述が伝説的で事実とは認められない」
としている。
日本書紀は5世紀に当たるであろうこの時代、
朝鮮三国よりも倭国が上位にいたことを強調しようという意思が
日本書紀編纂者に働いているものと思われる。
5世紀の倭国は倭の五王が宋に少なくとも十回以上朝貢しており、
強大な宋帝国から管轄する領土を決められていた
というのが史実に近いと言わざるを得ない。
知ってか知らずか、
日本書紀は倭の五王時代の東アジア情勢を全く無視する形で、
仁徳朝の対新羅、対高麗関係記事を書いているようだ。
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