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崇神紀60年秋7月条の,「武日照命が天より将ち来れる神宝」をめぐる記載から出雲古代史についての理解を深めようとしてきた。
この神宝が大和朝廷の手に渡ったのか,渡らずに出雲に残ったままだったのか、あるいは書紀には大和朝廷の手に渡ったことになっているが、実は出雲振根を殺害したと書かれている吉備津彦の吉備国の管理下に置かれたのか。
そして現在は出雲大社にあるのか、熊野大社なのか、あるいは大和朝廷がどこかに保管したままどこかにあるのか、不明なことばかりだ。
所在はともかくとして、その神宝とはどんなものだったのだろうか。近畿天皇家の三種の神器は剣と鏡と玉だと言われている。
崇神紀に記載されて崇神帝が興味を抱いた出雲の宝とはなんだったのだろうか。
藤田友治は「出雲王朝の五種の神宝」で崇神紀や出雲風土記の記載から神宝の正体に迫ろうとしている。
藤田は崇神紀で出雲振根が殺害されて、出雲では恐れて出雲大神を祀らなくなった時に、丹波氷上の氷香戸辺(ひかとべ)が皇太子の活目命(後の垂仁帝)に報告したという息子が最近口ずさんでいる意味不明の言葉に注目している。
「玉菨鎮石。出雲の人の祭る、真種の甘美鏡。押し羽振る、甘美御神、底宝御宝主。山川の水泳る御魂。静挂かる甘美御神、底宝御宝主。」
藤田はこの中に出てくる、玉菨鎮石は石、真種の甘美鏡という鏡、山川の水泳る御魂の玉、ここには石と鏡と玉の三種の神宝が表されているという。
石については隠岐の島特産の黒曜石だという。
黒曜石はまだ金属がなかった縄文時代には鏃や石器につける刃先として、強力な武器になったという。
縄文期には剣に代わる神宝として崇められていたとしても不思議はない。
それが出雲の祭祀にはまだ残っていたという考え方である。
私は、氷香戸辺の子供の言葉から黒曜石の鏡があったのではないかと考えてみた。
調べてみると、BC6000年〜8000年のトルコ中部のチャタルホコック遺跡から
黒曜石の鏡が発掘されて、アンカラ・アナトリア博物館に収蔵されていることがわかった。
日本ではまだ黒曜石の鏡は発掘されていないが、今後出雲の遺跡から発掘されないとも限らないのではないかと期待を抱いている。
(To be continued)
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2012年07月22日
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