|
応神紀22年条は、応神帝の妃兄媛(えひめ)が
里心がついて吉備国の実家に帰京してしまう説話である。
兄媛を忘れられない帝は狩りを口実にして吉備国まで追いかけて行く。
兄媛の兄の御友別は訪れてくれた帝をもてなす。
もてなし方に満足した帝が感激して、
吉備国を御友別の兄弟、子供たちに分け与えるというストーリーになっている。
これは岩波版の注にある通り、
吉備一族の祖先伝承を近畿天皇家が借用して、
あたかも吉備国を御友別の一族に対して、
応神帝が分け与えたことにしてしまっている。
日本書紀の常套手段だが、
この説話はそのやり口がわかりやすくできている。
御友別は孝霊帝の子の稚武彦(記では若日子建吉備津日子命)の次男。
吉備臣一族の祖先伝承では、
御友別が吉備国の領土を自分の兄弟と息子たちに
分け与えた話になっているのだろう。
応神紀によると5分割+1になる。
+1は実家に戻った兄媛に織部(はとりべ)として、
備前国邑久郡服部郷(現在の瀬戸内市長船町服部のあたり)を与えている分だ。
・長男の稲速別は「川嶋県」(備中国浅口郡:現在の倉敷市西南部)
を得て下道臣の始祖になった。
・次男の仲彦は「上道県」(備前国上道郡:岡山市東半部など)、
「香屋」(備中国賀夜郡:岡山市西部と総社市東部)を与えられて、
上道臣、香屋臣の始祖となっている。
・三男の弟彦は「三野県」(備前国御野郡:岡山市北半部)を領し、
三野臣の始祖となった。
・御友別の弟の鴨別は「波区芸(はくぎ)県」(笠岡市辺りか)を当てられて、
笠臣の始祖となった。
・御友別の兄浦擬(うらこり)別は「苑県」を任されて、
苑臣の始祖となったという。
日本書紀は崇神紀で吉備津彦を四道将軍の一人として西海道の派遣したり、
応神紀で領土を分け与えたりする記述を行うことによって、
吉備国に対する優位性をことさら強調しているようだ。
どちらの説話も古事記には全く記載されていない。
日本書紀の意図的な挿入であろう。
日本書紀がこのような形で吉備国を扱うということは、
8世紀初頭の近畿天皇家にとって記憶に残る近過去まで
吉備国の勢力が強かったことを示しているのかもしれない。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年07月25日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]






