|
地方豪族が周芳沙麼の浦で天皇に降服する件が、日本書紀には2回出てくる。
景行12年秋9月条と仲哀8年春正月条である。降服する豪族の名前は違っている。(景行紀は「神夏磯媛」、仲哀紀は「岡県主の祖熊鰐」)
真相解明のカギは仲哀紀の方にあった。
仲哀天皇はそれまで穴戸豊浦宮(下関市豊浦の忌宮神社内に豊浦宮趾)にいて筑紫(香椎宮)に向った。その情報を得た熊鰐が周芳沙麼の浦(防府市佐波)まで出迎えに行ったという。熊鰐は岡県(福岡県遠賀川河口の蘆屋町辺り)を勢力範囲にしている。
この三地域(周芳沙麼、穴戸豊浦、岡県)を東から並べると、
周防沙麼の浦(防府市佐波)、
穴戸豊浦宮(下関市豊浦の忌宮神社内に豊浦宮趾)、
岡県(福岡県遠賀川河口の蘆屋町辺り)
の位置関係となる。
仲哀紀をそのまま読むと、下関市から福岡市の方へ向かった仲哀帝を岡県(福岡市より東側)の熊鰐が下関市を通り越して防府市の佐波まで出迎えに行ったことになる。若松辺りですれ違ってしまうだろう。
さらに仲哀紀では、熊鰐の本拠である岡津に泊まる神功皇后のもとへ伊都県主の祖五十迹手(いとて)が船に玉、鏡、剣をかざして降服の意思表示をして穴戸の引嶋(下関市彦島)に出迎えたという。
ここでも糸島半島に居た五十迹手は神功皇后の居る岡津を通り越して引嶋(下関市彦島)まで出迎えていることになる。
山田宗睦氏は講演「古田史学の意義と日本書紀の研究」の中で、仲哀紀のこの部分について、
「これは誰が考えてもおかしいのです。
― 中略 ―
この話の中の進行方向を東西ひっくりかえしたら変なところはなくなることに気がつきました。日本書紀では東から西へやってくる話になっていますが、そうではなく、香椎の宮に居た九州王朝の始祖が、儺の津から周芳の沙麼に向けて出発した。
その時に伊都の五十迹手が出発する九州王朝の始祖の軍勢を送ってきたのです。
そして岡からさらに穴門の引嶋まで送ってきて引き返した。
― 中略 ―
岡から同行した熊鰐の方は五十迹手が帰ったのちも、さらに穴門の豊浦から周芳の沙麼に到るまで送ってきた。方向を逆にしてしまうと変なところは解消してしまいます。」
とした後に、
周芳の沙麼に着いたところからこの話は景行紀12年秋9月の「周芳の国の沙麼に到りたもう」
につながることを見抜いている。
九州王朝の始祖は周芳の沙麼を出発して九州一円を征服する遠征に出発したということになる。日本書紀が7世紀以前の各地の地域王国に残る説話を都合よく換骨奪胎して、近畿天皇家の歴史の中に組み込んだやり方が見えてくる例である。
山田宗睦氏はこの講演の最後に、
「これは一つの例でしかありません。このような目で日本書紀を見つめてみると、なぜこんな変なことが生じているのか、というような問題が次々と出てくるでしょう。」
と述べている。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年08月13日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]





