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日本書紀には景行紀、仲哀紀、神功皇后紀に、九州地方を征圧する記事が掲載されている。
前回のブログで書いたように、景行紀と仲哀紀に記述されている内容は一連の出来事で、香椎宮の倭王が九州の東岸から南端まで制圧する説話である。
それが日本書紀編纂者によって、意図的に順序と進行方向を変えて記述されていた。
元の通りに組み変えると次のようなストーリーになる。
日本書紀が参考にした資料は、日本旧記と呼ばれる九州王朝の国史だったと古田武彦氏は述べている。
倭王が九州一円を征圧するための遠征に出ることを聞いた伊都国王五十迹手(いとて)は、舳先に上枝に八尺瓊、中枝に白銅鏡、下枝に十握剣を掛けた船に援軍を載せて倭王軍に合流するために穴門の引嶋(下関市彦島)へ向かった。
また岡国王熊鰐は、舳先に上枝に白銅鏡、中枝に十握剣、下枝に八尺瓊を掛けた九尋の大型船に援軍を載せて周芳の沙麼にはせ参じた。
倭王軍は周芳の沙麼に集結した。(ここまでが仲哀紀記載部分)
周芳の沙麼に大量の倭王軍が結集していることを知った対岸(行橋市あたりか)の神夏磯媛は、賢木((さかき)に上枝に八握剣、中枝に八咫鏡、下枝に八尺瓊を掛け、船の舳に素幡(しらはた)を樹てて、降服してきた。倭王軍は神夏磯媛から得た情報を基にして宇佐市辺りに上陸して最初の戦を始めた。
以降東九州、南九州を時計回りに征圧する。
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2012年08月15日
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