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正史には、続日本紀和銅六年七月
「大倭国宇太郡波坂郷の人、大初位上村君東人、
銅鐸を長岡野の地に得て献る。
高さ三尺、口径一尺。
その制、常に異にして、音、律呂に協ふ。」
が銅鐸の記載の初出だという。
正史に最初から「銅鐸」という言葉が使われていることが面白い。
続日本紀が銅鐸と名づけたので、
以降現在に至るまで銅鐸と呼ばれているのかもしれない。
「鐸」を漢和辞典で調べると、
①おおすず。大きな鈴。昔、命令を発する時に鳴らして大衆を戒めたもの。
文事には木鐸、武事には金鐸を用いた。
②風鈴。軒につるす鈴。
続日本紀は「其制異常」、
その体裁は普通ではないと述べているので、
銅鐸民族の情報は8世紀の朝廷に伝わっていなかったということか。
続いて「音協律呂」、
出す音は音階に合っているというのだろうか、
安定した音を奏でていることに注目している。
音を出すことを目的としたものと解釈して、
「銅鐸」と名付けたのだろう。
これまで出土した状況から、
銅鐸は弥生時代にその製造・使用が始まり、
弥生時代が終わるまでに地表から無くなってしまったらしい。
したがって弥生土器などと並んで、
弥生時代を象徴的に表しているものと言えるだろう。
もともとは朝鮮半島にあった小銅鐸から発展したと思われている。
しかし、朝鮮半島の小銅鐸とは大きな相違がある。
ひとつは銅鐸には鰭(ひれ)=周囲の出っ張りがある。
もうひとつは模様がついている。
どちらも日本列島の人々の造形上の美的感覚が発揮されている。
さらに銅鐸作成技術においても秀でたものがあるという。
銅鐸は成分を分析すると銅90%+錫10%+鉛5%の合金だが、
加茂岩倉から出土した銅鐸からは厚さ2mmのものがあり、
現在の鋳造技術をもってしても製造は難しいと言われている。
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2012年09月10日
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