のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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もやもやしていることを一気に解決してくれる本との出会いがある。
河内洋輔著「古代政治史における天皇制の論理」は
私にとってまさにそんな本である。
 
推古帝から舒明帝の時代への移り変わりの不自然さは
多くの人たちが指摘しているところである。
私は以前その日本書紀の記述の不自然さの原因として、
舒明帝即位は実は息長氏がクーデターによって
蘇我氏から実権を奪い取ったのではないかと考えていた。
舒明帝即位後の、
山背大兄皇子抹殺、
乙巳の変による蘇我親子殺害、
古人大兄皇子処刑と日本書紀は記述しているが、
全てが7世紀後半の舒明帝の血統の繁栄につながる結果となっている。
息長氏の勢力を背景にして
蘇我氏の主流を追放した経緯を正当化するようなストーリー展開を
日本書紀は行ったのだろうと想像した。
それはあくまで結果から考えた推測にすぎなかったが、
河内洋輔氏はそのもやもやしたものを見事に論理的に埋めてくれた。
 
日本書紀では推古帝の遺言の解釈によって
蘇我蝦夷が田村皇子を後継に指名して
舒明帝が即位する展開になっている。
河内洋輔氏は、それでは
 
「田村皇子はいかなる立場で即位したのか?」
 
と疑問を呈している。
6世紀には天皇に即位するための原理原則があって徹底されていた。
しかし田村皇子即位はどれにも当てはまらない。
田村皇子にはそれまでの原則からすると
皇位を継承する資格が十分とは言えなかった。
推古帝の時代には厩戸皇子が約30年間皇太子の地位にいたという。
厩戸皇子のその実績を重視するならば
厩戸皇子の息子である山背大兄皇子が最有力となる。
山背大兄皇子が選ばれなかったのは血統上の理由で、
生母が蘇我氏のためあくまで傍系の存在でしかなかった。
それに対して田村皇子は父母が敏達帝の男女子、
直系天皇の孫という立場だった。
両者とも決定力に欠ける中で
不安定な共存関係のまま田村皇子が即位した。
 
舒明帝に好意的に記述しているはずの日本書紀でさえも
はっきり即位の正当性を書くことができないほど
舒明帝は天皇になる資格が希薄であったということだろう。

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