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本日も河内洋輔氏の著書「古代政治における天皇制の論理」に
基づいて記述してみようと思う。
日本書紀は持統帝以降の近畿天皇家にとって
都合のよいように構成された史書である、
ことを前提に読んでいくと見えてくることが多々ある。
もともとバイアスがかかった記述になっているのであるから、
編集者の意図を理解して読むことが
読む側の正しい姿勢とも言えるだろう。
推古帝の崩御後、
舒明帝は条件も満たさず根拠もないまま即位した。
原理原則に沿っていない舒明帝の即位に対して必然的な結果として
殺戮合戦が行われたことが日本書紀に記されている。
643年 山背大兄皇子抹殺(皇極紀)
645年 蘇我蝦夷・入鹿親子抹殺(皇極紀)
古人大兄皇子処刑(孝徳紀)
山背大兄皇子を追い込んだのは蘇我入鹿となっている。
蘇我親子と古人大兄皇子に対しては中大兄皇子が主導している。
日本書紀は蘇我氏を山背大兄皇子滅亡の主犯として描き、
さらに天皇家をも顧みない横暴ぶりを詳細に記述している。
蘇我氏の「悪行」の詳細を書いた後に
中大兄皇子が登場して、
蘇我親子を滅ぼし、
謀反を企てた古人大兄皇子を逮捕・処刑している。
勧善懲悪劇の善側の主人公が中大兄皇子である。
日本書紀の描き方はともかくとして、結果として、
「生き残ったのが中大兄皇子=天智帝だった」
このことは史実と考えてよいだろう。
その結果を踏まえて、
日本書紀の中大兄皇子に対する記述を
さかのぼって読み返してみると、
①舒明帝在位のもとで、
中大兄皇子はすでに「東宮」、「太子」の地位にあったとされている。
②中大兄皇子の生母である皇極帝が
舒明帝の皇后に立てられている。
(皇極帝は再婚でかなり遅れて後宮入りしたにもかかわらず。)
③舒明帝の死後、皇極帝がすぐに即位したとされている。
①から③は日本書紀の編集方針の反映であって、
結果として生き残った中大兄皇子=天智帝の正当性を主張するために、
・生母を皇后だったことにしている。
・早期に中大兄皇子を皇太子だったとしている。
もしこのことが事実であったなら舒明帝の死後に
中大兄皇子はすぐに即位していたはずである、
と河内氏は述べている。
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2012年10月05日
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