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河内洋輔著「古代政治史における天皇制の論理」で学んだことを整理しておこう。
【6世紀の皇位継承の考え方】
6世紀の天皇位がどのようにつくられていたかを分析している。
共通する特徴として妻の一人に皇女がいる。
天皇の子供には皇位を継承する資格があるようだが、
更にその子供に皇位を伝えることができるのは
皇女を母とする天皇(直系)のみである。
仁賢帝皇女の手白香皇后を母とする欽明帝、
宣化帝皇女の石姫を母とする敏達帝は子孫に皇位を伝えたが、
その他の天皇(傍系)は氏出自の母をもつために一代限りだった。
したがって皇統は欽明帝から敏達帝、
敏達帝からその子孫へと一筋に作られている。
【舒明帝は何故即位できたか】
敏達帝の崩御後は用明帝、崇峻帝、推古帝と続き、
欽明帝の皇子、皇女が即位した。
敏達帝には皇后が二人いた。
最初の皇后広姫(息長真手王の女)には
押坂彦人大兄皇子と二人の皇女がいた。
二番目の皇后が豊御食炊屋姫尊(後の推古帝)で
二人の皇子(竹田皇子、尾張皇子)と五人の皇女を産んだという。
男女を合わせると、
10人の天皇になることができる候補がいたにもかかわらず、
推古帝が崩御する頃には
押坂彦人大兄皇子の子田村皇子、
厩戸皇子の子山背大兄皇子の二人に候補は絞られていた。
(系譜から見ると二人とも皇子とは言えない)
田村皇子は父母がともに敏達帝の子という血統的な優位があった。
山背大兄皇子は父の厩戸皇子が
約30年もの間推古帝の皇太子だったという実績が頼りだった。
しかし二人とも決定的な皇位継承の資格を持っていないため
不安定な状態のまま田村皇子が即位し、舒明帝となった。
【皇極帝の即位】
敏達紀では豊御食炊屋姫尊(後の推古帝)所生の
田眼皇女は舒明帝に嫁いだことになっているが、
舒明紀には記載がない。
舒明帝の崩御後、すぐに皇極帝が即位したことになっている。
皇極帝は即位前「宝皇女」と書かれているが
実際には天皇の娘ではない。
舒明帝の皇后とされているが、
実際には既婚歴があり、
前夫(高向王)との間には漢皇子が産まれている。
皇女でもなく、皇后であったことも疑わしい「宝皇女」が
日本書紀によると舒明帝崩御後すぐに
何の問題もなかったかのように即位している。
はなはだ不審であると言わざるを得ない。
河内氏は舒明崩御後の4年間は空位だったが、
日本書紀編纂者が皇極帝を創作してはめ込んだとしている。
【息長氏vs蘇我氏の視点:私の考え方】
以上が河内洋輔氏の見解を基にまとめたものだが、
蘇我氏の権力が強力だった中で、
息長氏系と思われる舒明帝、皇極帝が
根拠があいまいなまま即位できたとは思えない。
山背大兄皇子を蘇我入鹿が抹殺する経緯は
まるで息長氏のために蘇我氏が同士討ちしているように見える。
非常に不自然な展開になっている。
息長氏による蘇我氏の抹殺を乙巳の変に集約しているが、
実際には舒明帝から皇極帝にかけての治世17年間が
息長氏によって蘇我氏が滅亡させられた
天皇不在(=権力移行)の期間だったのではないだろうか。
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2012年10月07日
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