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【天皇系譜の相似形】
初代女性天皇といわれる推古帝から
舒明帝、皇極帝へ引き継がれる皇統の系譜は、
持統帝から文武帝、元明帝と引き継がれた
7世紀末から8世紀初頭にかけての系譜と似ている。
さらに推古帝の後には皇位継承資格者だった押坂彦人大兄皇子を
父とする舒明帝が即位した流れは、
持統帝を引き継いだ文武帝が持統帝の息子の
草壁皇子の息子であることと相似形となっている。
・6世紀末から7世紀初め
推古帝⇒(押坂彦人皇子)⇒舒明帝⇒皇極帝
・7世紀末から8世紀初め
持統帝⇒(草壁皇子)⇒文武帝⇒元明帝
【なぜ舒明帝を創作しなければならなかったか】
持統帝は孫の文武帝の即位を見届けて、
文武6年(大宝2年、702年)に崩御している。
日本書紀の編纂を主導していた前例重視主義の藤原不比等は、
当初持統帝の信頼を得ることに最大の関心を払っていた。
持統帝の最大関心事は孫の軽皇子を即位させることだった。
不比等は天皇の子でない軽皇子を即位させるために、
日本書紀の中に前例を作り出すことを考えて持統帝に提案したのだろう。
前例に従って文武帝へ譲渡するという環境を整えることが目的だった。
そのために押坂彦人皇子の息子田村皇子を
日本書紀の中に造り出して舒明帝として即位させた。
【不比等の舒明帝創作企画を持統帝は承認した】
不比等は持統帝を初代女帝で37年間君臨した推古帝に当てはめた。
持統帝は自分が伝説の女王に比定されているのだから満足だっただろう。
不比等は女心を手玉に取ることにも長けていたのかもしれない。
推古帝の皇位を引き継いだのが、
押坂彦人皇子の子供の舒明帝である。
天武帝と持統帝の間の子である草壁皇子の息子の
文武帝が即位することには何の問題もなくなった。
舒明帝は文武帝即位のために造りだされた。
持統帝は文武帝に譲位することになるが、
譲位の前例も創作する必要があった。
皇位が譲位された前例として
皇極帝の孝徳帝への譲位譚が出来上がった。
無理なストーリーを挿入したため
修正する必要が生じたのだろう。
皇極帝は孝徳帝の崩御後、再即位せねばならなくなった。
日本書紀編纂時にとって近過去である天智帝の時代は周知されているため
整合性をとらなければならなかった。
天智帝の直前の天皇は斉明帝(皇極帝重祚)でなければならなかった。
全ては藤原不比等が持統帝の信頼を得るための画策だったと考えると、
日本書紀に描かれている、
舒明帝即位の不自然さ、
皇極帝の重祚、
に対する疑問が解決する。
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2012年10月23日
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