のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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日本書紀は7世紀の情勢、
天皇の治世で言うと推古朝以降を
特に慎重に書き上げている。
正史である日本書紀は日本という国家の
存在証明としての意味合いが強いことは言うまでもない。
それ以上に大宝律令を制定して始めようとしている
律令政治を推進するためのツールとしての機能を求められている。
8世紀以降の近畿天皇家の政権を正当化し確固たるものにするために、
意図的に作り上げられているところがあると思われる。
日本書紀の記述以外から史実として確定できることを確認し、
7世紀の史実を推しはかっていきたい。
 
史実として確定できそうなこと。
700年までは倭国、701年以降は日本国。(旧唐書)
700年から701年の間に評制が郡制に改められた。(藤原宮出土の木簡)
 
古田武彦氏は、700年まで施行されていた評制を制度化したのは
近畿天皇家ではないと断定している。
理由として評制について日本書紀がいっさい記していないことを挙げている。
従来説では孝徳帝時代に中大兄、藤原鎌足主導で
制定されたとされるようだが、
日本書紀編纂の中心的存在だった藤原不比等が
父鎌足の業績を記さない理由がないと指摘している。
評制は近畿天皇家ではなく、
他の王朝=九州王朝が制定したものと断じている。
九州王朝が制定したとする傍証として、
倭の五王が都督とされていることを挙げている。
倭王は中国の王朝=宋から都督と任官されている。
都督とされたのは倭王と百済王が明らかになっているが、
倭国には倭王=都督の居る場所として筑紫都督府があり、
百済には熊津都督府がある。
評制の評督は評の長官だが、都督の下に位置している。
つまり評は筑紫都督府の下部組織ということになる。
そのことから古田氏は評制から郡制への移行、
倭国から日本への変動は、
筑紫から近畿への権力中心の移動を示しており、
701年に権力の正式な移動が行われたとしている。
そのことを前提に日本書紀の7世紀の記述を読んでいきたいと考えている。
 

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