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【年号制は皇帝による時間支配を表す中国の制度だった】
年号制は、暦・時刻制とともに、
「皇帝による時間支配を形作り、国家行政に規律を与えた」
(吉川真司「飛鳥の都」)
中国の制度である。
【倭国の年号の採用は】
東アジア諸国が中国の王朝の冊封下にあった時には、
独自の年号をもつことは許されなかった。
中国の史書には5世紀から6世紀の初頭にかけて東晋・宋・斉・梁に朝貢し、
「安東将軍」などに任じられた倭の五王のことが書かれている。
倭国は中国王朝の冊封体制に組み込まれていた。
中国の王朝の支配下にはいっている国が
独自の年号をもつことは許されなかっただろう。
倭国に関する記事は梁書武帝紀の倭王武が
征東大将軍に任じられた(502年)ことを示す記述を最後に
中国の正史にしばらく出現しなくなる。
その頃から倭国九州王朝では九州年号の採用を始めている。
517年に「継体」年号を採用し、以後「善記」、「正和、「教到」、・・・と
継続して年号を使用しており、700年の「大長」で終了している。
その後に近畿天皇家によって「大宝」年号が採用されたことになる。
中国が梁になってからもしばらく冊封体制下にいた倭国が
何らかの事情で517年に独立したものと思われる。
年号の採用は独立の意思表示でもあっただろう。
【近畿天皇家の年号】
日本は701年に「大宝」という年号を採用した。
それ以前には7世紀の近畿天皇家が三つの年号を採用したことを
日本書紀は記している。
孝徳帝の治世は前半が「大化」(元年〜5年)、
後半が「白雉」(元年〜5年)となっている。
もう一つが天武帝治世の最後の年(15年目)の「朱鳥」(7月20日改元)。
この三元号以外には元号をもたなかった。
元号がないということは独立していなかったか、
日本列島における主権を持っていなかったことを意味している。
それでは何故、「大化」、「白雉」、「朱鳥」の三元号だけ
日本書紀に記されているのだろうか。
古田武彦氏は次のように述べている。
・「白雉」年号について
白雉とは天子の瑞兆を表す言葉である。
九州王朝では多利思北孤が天子を自称しているので、
白雉年号の記事は九州王朝のものを借用したのだろう。
九州年号では「白雉」は652年から660年までで
孝徳8年から斉明6年に当っている。
・「朱鳥」年号について
朱鳥には徳政令のイメージがある。
天武15年7月19日に借財免除の法令を出し、
翌日に「朱鳥」と改元している。
白村江敗戦の後インフレが起こり
九州王朝で借財返済免除の法令が出された。
この法例は豪族・高級官僚の反発を買って
九州王朝の衰退に結びついた。
日本書紀はその法令だけ借用している。
持統元年には元本ではなく利子に訂正している。
九州年号では684年〜685年、天武13年〜天武14年が「朱雀」となっている。
・「大化」について
大化の改新の主要項目は、部民制を廃止して公民制を施行したこと。
九州王朝の制度だった部民制を廃止して
近畿天皇家の制度である公民制に移行した
8世紀初めの状況に合致している。
「二中歴」では700年から701年が「大化」となっている。
日本書紀は「大化」を半世紀遡上させた。
何故か?
天武帝と持統帝が天智帝の遺志を裏切って大友皇子を自殺に追いやった
壬申の乱を正当化するためだとしている。
日本書紀を編纂していた頃の人々はこの事実を記憶していて
大友皇子の悲劇を密かに語り継いでいた。
その過去を覆うべく日本書紀は編まれた。
天智帝の遺志は公地公民制などを実現することにあり、
壬申の乱はその実現のために行われた。
その結果として大宝律令の制定で実現しようとしている制度は
天智帝と藤原鎌足が望んだことだったと主張している。
つまり「大化」を乙巳の変の直後にさかのぼらせることで、
大化の改新と大宝律令の制定をだぶらせて、
壬申の乱の正当化を図ったと古田武彦氏は述べている。
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2012年11月02日
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