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【教科書に多利思北孤が出てこない】
手元にある「詳説日本史B」(山川出版社)には、
隋書俀国伝についての具体的な記述がない。
「隋への国書は倭の五王時代とは異なり、
中国皇帝に臣属しない形式をとり、
煬帝から無礼とされた。」
と書かれているのが隋書俀国伝に基づくものだろう。
「多利思北孤」についても、
「日出ずる処の天子」についても触れていない。
我々の高校時代は、
「タリシヒコは聖徳太子のこと」
と教科書にあったと記憶している。
現在は古代史学界共通の認識が得られていないのだろう。
勘ぐれば、都合の悪いことには触れないでおこうという
学会の慣習が表れているのかもしれない。
【隋書俀国伝の記述】
隋書俀国伝によると、
開皇二十年(600年)、
俀王「阿毎多利思北孤が使いを隋の都長安に遣わした。
俀王は弟と共に俀国を統治している。
雞弥(きみ)という名の妻がいて、後宮に6,7百人の女性がいる。
利歌弥多弗利という名の太子がいる。
城郭はない。
内官には十二の等級がある。
軍尼(国造か)は120人いる。
中国の牧宰のようだ。(評督のことかもしれない。)
八十戸に一伊尼翼(稲置か)、十伊尼翼で一軍尼。
後段に約十万戸あるとの記述があり、だいたい計算は合う。
(80戸×10伊尼翼×120軍尼=96,000戸)
俀国の風俗が詳しく記述されている。
服装、男女の髪型、武器の種類、犯罪者に対する刑罰など細かく記されている。
土地の説明としては、「阿蘇山あり。」との記述がある。
阿蘇山から近い場所に俀国があると解釈せざるを得ないだろう。
【「日出ずる処の天子」国書と国交断絶】
大業三年(607年)、俀王多利思北孤は再度遣使している。
この時に有名な
「日出ずるところの天子、
書を日没する処の天子に致す。恙なきや、云々」
の国書を煬帝に渡している。
翌年隋は文林郎裴清を俀国に遣わしている。
裴清は百済→竹島→対馬→壱岐を経由して筑紫に到着している。
さらに東にある秦王国にも顔を出したようだ。
俀王は裴清を歓待したが、
帰国後俀国と隋の国交は途絶えたという。
【隋書の俀国と倭国】
同じ大業四年(608年)と大業六年に倭国が貢献したことが
隋書帝紀に記されている。
大業四年俀国と国交が途絶えた年に、
隋と倭国との交渉が始まった。
隋書は俀国と倭国を書き分けている。
俀国が阿蘇山の近くにある九州王朝だとすると、
倭国は近畿天皇家の可能性が高い。
【不誠実な古代史学界】
いずれにしても古代史において
このように貴重な史料である隋書の記述について、
近畿天皇家一元主義に固執しているために
史実としての統一見解が得られず、
教科書にも載せることができない古代史学界の現状は残念である。
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2012年11月15日
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