|
57年(建武中元二年、後漢光武帝)「倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫倭国の
極南界也光武賜以印綬」(倭奴国王印綬受領、後漢書)
107年(永初元年、後漢安帝)「倭国王帥升等献生口百六十人願請見」(後漢書)
(倭国内乱)
238年(景初二年六月、魏明帝)「倭女王遣大夫難升米等諸郡求朝献」、
「我甚哀汝今以汝為親魏倭王仮金印紫綬」
(魏志、梁書では景初三年)
240年(正始元年、魏少帝)「倭王(卑弥呼)因使上表答謝」(魏志)
243年(正始四年、魏少帝)「倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪拘等八人」(魏志)
245年(正始六年、魏少帝)「詔賜倭難升米黄幢」(魏志)
247年(正始八年、魏少帝)「倭載斯鳥越等詣郡」
266年(泰始二年、西晋武帝)倭女王壹与西晋に貢献(晋書)
この間倭国朝貢記事は見当たらないが、
梁書には女王壹与の後、
「復立男王並受中国爵位晋安帝時有倭王讃」
とあるので、
記録には残っていないが西晋→東晋への朝貢は続けていたと思われる。
梁書は壹与も倭王讃も倭国の王だと言っている。
倭国は倭奴国王に始まり、
卑弥呼から倭の五王に至るまで中国への朝貢を継続したのだろう。
413年(義煕九年、東晋安帝)倭王讃、東晋に方物を献ず。(梁書南史)
421年(永初二年、宋武帝)倭王讃宋に貢献、武帝より除受の詔
425年(元嘉二年、宋文帝)倭王讃宋に遣使、文帝に上表、方物を献ず
430年(元嘉七年、宋文帝)讃死して弟珍立つ使を宋に遣わす
438年(元嘉十五年、宋文帝)倭王珍為安東将軍
443年(元嘉二十年、宋文帝)珍死して子済立つ
451年(元嘉二十八年、宋文帝)安東将軍倭済進号安東大将軍
460年(大明四年、宋孝武帝)倭国宋に遣使方物を献ず
462年(大明六年、宋孝武帝)倭国王世子興為安東将軍
477年(昇明元年、宋順帝)倭王武宋に貢献上表
479年(建元元年、斉高帝)斉高帝倭王武に鎮東大将軍の号を授ける
502年(天監元年、梁武帝)梁武帝倭王武に征東大将軍の号を与える
中国の史書によるとはっきりしているだけで、
57年の「金印授受」の倭奴国王から502年の倭王武まで
450年近くの間倭国は中国に朝貢し、
その権力の傘下に入って国内の安定をはかっていたことがわかる。
ユーラシア大陸において西のローマ帝国に匹敵するほどの
大国家を成していた中国に
東アジアの国々は朝貢することによって
攻撃を受けないように対処することが必要だったのだろう。
その後、522年には九州年号がスタートしている。(鶴峯戊申「襲国偽僭考」など)
502年の梁武帝からの授号から約20年の間に、
中国王朝から独立しなければならない事情が生じたのかもしれない。
508年に高句麗王が撫東大将軍とされていることなども影響したのだろうか。
いずれにしても歴史上はじめて自前の年号をもち、
中国の冊封下から独立を決意した記念すべき瞬間だった。
約80年後の600年この延長線上に、
「日出処の天子」からの対等なスタンスの国書が隋へ届くことになる。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2012年11月17日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]




