のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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大和朝廷考

【大和朝廷の始まりは701年】
大和朝廷は701年大宝律令の制定によって正式なスタートを切ったということができるだろう。
日本国の始まりでもある。
したがって初代天皇は文武帝ということになり、続日本紀は日本国最初の正史ということになる。
日本書紀は前王朝=倭国時代の歴史書である。
 
【大和朝廷成立前の歴史】
前王朝までの中心は北部九州にあったと思われる。
倭奴国、邪馬壹国などと中国史書に記されているのは、全て九州に国王がいた倭国のことである。
倭国は5世紀の倭の五王まで中国の王朝に朝貢しつづけており、冊封体制に組み込まれて成立した国家だったようだ。
その後「海東諸国紀」によると、継体16年(523年)に「善化」という元号をはじめて用いたという。
この頃には中国の史書から倭国に関する記事が見えなくなる。
冊封体制から離れて独立を宣言し元号を制定したと考えられる。(523年、倭国独立)
「隋書俀国伝」の「日出処天子」の書簡も朝貢の上表文ではなく対等な立場で送られた外交書簡の体裁をとっている。
倭の五王の最後の倭王武までは冊封体制に組み込まれていたが、倭王武の晩年か死後に独立したと思われる。
独立した倭国は7世紀中頃まで継続したが、663年の百済救済の戦い(白村江の戦い)の敗戦によって壊滅的なダメージを受けることになる。
白村江の戦に参加しなかった近畿勢力は唐や新羅と交流を深めることによって、急速に成長して日本列島を代表するようになる。
 
【律令制国家の三本柱とは】
大和朝廷の中心は近畿天皇家だった。
近畿天皇家は唐の律令制をお手本にした国家づくりを進めた。
国家の骨組み作りは実力をつけてきた(中臣鎌足の子)藤原不比等が中心となって百済からの帰化人や帰国した遣唐使などを使って進められた。
・近畿天皇家の正当性の確立
・律令体制の確立
・宗教改革
を三本柱として進められた。
 
【近畿天皇家の正当性の確立】
近畿天皇家の正当性の確立については、古事記、日本書紀の編纂によって理論作りが行われた。
神代の昔から近畿天皇家の先祖による支配が継続して行われてきたことを強調した。
 
【律令体制の確立】
律令体制作りは唐の制度を模範にした。
大宝律令の制定によって豪族たちの勢力を限定的なものとして、すべての権力が天皇に集中する体制を作り上げた。
天皇の権力を中心に実際の政治は官僚たちが動かす仕組みを作り上げた。
さらに718年に大宝律令を改定して養老律令を制定する。
その中で藤原不比等は天皇の権力を形骸化させて、実際の権力を太政大臣が握るように改訂している。
藤原氏が実質支配する体制の基盤を確立したと言えるだろう。
 
【宗教改革】
天照大神を近畿天皇家の始祖神として伊勢神宮に祀り最高神とした。
それまで伊勢神宮を管掌していた忌部氏を排除し、藤原氏と同族の中臣氏が取仕切ることにした。
 
【藤原体制の成立】
養老律令の制定によって、近畿天皇家を頂点に担ぎ上げて、実質的な藤原氏の支配体制が完成した。
藤原不比等は藤原氏と中臣氏を分割した時から、政治と宗教の双方を同族で支配する構想をもっていたのかもしれない。
平城京と伊勢神宮は藤原氏と中臣氏が実質支配する体制となった。
 

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