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日本書紀には、伊弉諾尊・伊弉冉尊が天浮橋の上から
「天之瓊矛を以て、指し下して探る」と
「矛の鉾より滴瀝る潮、凝りて一の嶋に成れり」
大八洲生成神話の始まりである。
天之瓊矛とは何か。
本居宣長は、
「玉以て飾れる矛なるべし、古はかかる物にも玉を飾れる、常のことなり」
と述べている。
宣長が常のことと言ったことに対して古田武彦は異議を主張する。
弥生時代の遺跡から、玉で飾られた矛の出土はそれほど多くない。
弥生時代の近畿の遺跡からは全く出土しない。
「勾玉類+細矛」がセットで出土しているケースは極めて稀である。
「常のこと」では決してない。
まれなケースとして、
福岡県の須玖岡本遺跡からは細矛5本と多数の勾玉・管玉が出土している。
同じく福岡県の三雲遺跡からも細矛2本と多数の勾玉・管玉が出ている。
古田は宣長が「常のこと」と認識したのは
考古学の知識がないためでやむを得ないこととしている。
古田は須玖岡本遺跡と三雲遺跡から
「勾玉類+細矛」がセットで出土していることから次のように述べている。
「『国生み神話』とは、この須玖・糸島などの王者の
『王権の尊厳とその支配領域の拡大』を語る説話であった、
そう解すべきこととなろう。
わたしは、この『国生み神話』の第一の聴衆が、
眼前に『天之瓊矛』を誇りやかに提示された公式儀礼の場で
これを聴かされたこと、それを疑うことができない。」
さらに古田は「勾玉類+細矛」のセットについて考えを進めている。
勾玉などの玉は縄文期以来の日本列島の出土物であるのに対して、
矛は中国ないし朝鮮からの舶来品である。
となるとこの複合セットの成立には二つのケースが考えられる。
第一は、縄文以来勾玉を貴重なシンボルとしてきた
日本列島人が渡来の矛を加えて複合セットを作った。
第二は大陸からの渡来人が征服者となってもち来った矛に
在地民のシンボルである玉を添付して複合シンボルを作った。
どちらのケースだったかを判断する裏づけとして、
古田は土器の変遷を挙げる。
もし渡来者によって征服されたのであれば、
弥生期には漢式土器が支配的になっているはずなのに、
実際には縄文期以来の伝統に立った弥生土器が中心である。
したがって「勾玉類+細矛」がセットの所有者は第一のケースで、
大陸からの渡来征服者による支配の実態はなかったと主張している。
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