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【倭王武が始めた九州年号】
「海東諸国紀」に九州年号が記載されていた。
何故九州年号はできたのだろうか。
その原因について古田武彦は、九州王朝と中国南朝(梁)との関係悪化を挙げている。
倭の五王は讃以来100年以上にわたって中国南朝に朝貢していたが、梁の初代皇帝武帝の天監元年(502年)を最後に交流しなくなっている。
梁が「百済」や「新羅」には「大将軍」の称号を与えたが、倭国には「大」を削除して「将軍」号のみとしたためだと思われる。
倭の五王最後の倭王武が継体16年に「善記」という年号を定めた、と「襲国偽僭考」に記されている。
一説には517年に「継体」という年号が制定されたとも。
その後701年まで九州年号は継続し、近畿天皇家によって制定される「大宝」に引き継がれることになる。
【古田武彦による九州年号実在の証明】
九州年号には531年(辛亥)に始まる「発倒」がある。
「発倒」について古田武彦は「失われた九州王朝」で明快な見解を示している。
531年(辛亥)は日本書紀の記述に矛盾がある年である。
継体紀によると「継体天皇崩御年」だが、次代の安閑天皇即位(甲寅、534年)との間に「3年の空白」がある。
継体紀の最後には、或る本(百済本紀のことか)によると、
「(辛亥年に)日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」
と書かれていることを参考にして、日本書紀は書いたのではないか、と注をつけて記述している。
古田は「(辛亥年に)日本の天皇及び太子・皇子、俱に崩薨りましぬ」は、継体天皇によって殺害された九州王朝の天子磐井と皇子達のことだと解釈し、天子と皇子達を失った九州王朝は、その年(531年、辛亥)に年号を改めて「発倒」とした。
磐井の死によって「倒」れた九州王朝を再び「発(おこ)」す、という意味で「発倒」としたと論じている。
古田は金石文との符合などいくつかの例を挙げて九州年号の実在を証明している。
【発掘された四寅剣の持つ意味と九州年号】
また、先日福岡で発掘された「元岡G6古墳出土太歳庚寅銘鉄剣」の庚寅年に当たる西暦570年に、九州年号は「金光」と改元されている。
これは前年来流行した熱病によって九州王朝の天子が崩御したため、「金光」年号へ改元すると同時に、熱病の邪気を払う効果があるとされる四寅剣「庚寅銘鉄剣」を造らせた、と解釈することができ、九州年号実在の傍証の一つとなったと言えるだろう。
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2013年04月23日
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稚野毛二派皇子(わかぬけふたまたのみこ)
「記」では若沼毛二俣王とある。
応神天皇の皇子で母は、「紀」では日本武尊の孫・河派仲彦の娘・弟姫。
「記」では咋俣長日子王の娘・息長眞若中比賣。
稚野毛二派皇子自身が活躍する場面は見られないが、その娘の忍坂大中姫、衣通郎女は允恭天皇の后妃になっている。
その息子の大郎子(おおいらつこ)は近江、越前などの多くの地方豪族の祖先となっていて、継体天皇の祖父もしくは曾祖父とされる。
【意富富杼王から継体天皇へ】
古事記では若野毛二俣王(わかぬけふたまたおう) の長男大郎子の亦の名前 意富富杼王(おほほどのおう)はその3代後の孫に当たる継体帝の名前袁本杼命(おほどのみこと)とほとんど同じである。
意富富杼王には、
「三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫の末多君、布勢君等の祖」
と、原注がついている。
この中には、天武天皇が定めた「八色の姓」で「真人」となった13氏のうち5氏が列挙されている。
まるで天武天皇が意富富杼王を祖とする系譜の中から「真人」に抜擢する氏族を選んだかのような一致をみている。
意富富杼王は近江坂田を本拠地として居住し、息長氏などとの関係を強化して、後の継体天皇につながっていくものと思われる。
【伝稚野毛二派王陵:垣籠(かいごめ)古墳】
滋賀県の長浜平野北部の姉川流域には、長浜古墳群(坂田古墳群とも)と呼ばれる
十基以上の前方後円墳が分布している。
その中で垣籠集落の北に全長50m余の伝稚野毛二派王陵がある。
明治時代に調査が行われ前方部から竪穴式石室が発見された。
中から人骨、鏡、剣、刀、勾玉、管玉、小玉などが出土、五世紀初頭に造成された古墳と推定されている。
稚野毛二派王陵とされた根拠は明らかではないが、大橋信弥氏は6世紀以前においてこの辺りに本拠をおいて活躍していた坂田酒人氏との関連を指摘している。
息長氏の本拠は長浜古墳群から10km程南、天野川(旧息長川)沿いにあって、坂田酒人氏との関連はさらに検討を要するだろう。
稚野毛二派王は在地の豪族であって記紀編纂時に応神天皇の皇子に組み込まれたのではないかと思われる。
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