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八面大王の物語はいろいろな史実を暗示しているように感じられる。
●安曇野という地名の起源
●九州王朝と近畿王朝
●近畿天皇家と仁科氏の関係:皇極太子とは誰か
●安曇氏と仁科氏の代理戦争
●安曇野から信濃への地名変更
安曇族の入植から仁科氏が国守になるまでには
いろいろな出来事が絡み合う歴史の流れがあるようだ。
その歴史の流れのターニングポイントとなった出来事を
八面大王の物語は象徴しているのではないだろうか。
坂本博氏が言うように、
安曇族が入植したのは、
磐井の乱の後の6世紀前半のことだったかもしれない。
また、唐・新羅軍が百済を滅ぼす勢いを示している時に、
倭国九州王朝が安曇族がいる地に逃げ城を用意していて、
近畿天皇家が成立した701年以降、
九州王朝の天子だった薩夜麻以下が
この地に逃げ込んだことも十分考えられる。
【安曇野の名前の起源】(ウィキペディアより)
●福岡県の志賀島を中心に活動していた安曇族が全国に散らばり、
各地に定住するようになったが、本拠地はここである。
穂高神社に祖神を祀るようになった。
安曇野という地名の起源は安曇族による。
●仁科濫觴記には、成務天皇が諸国の郡の境界を定めた際、
「保高見熱躬」が郡司であったため熱躬郡になり、
後に皇極太子によって安曇に改称された。
仁科濫觴記の記述は日本書紀に辻褄を合わせた後付けだろう。
安曇族の移住は穂高神社の御船神事などとも整合している。
【九州王朝と近畿王朝】
「九州王朝」とは記紀などを史料批判することによって、
古田武彦氏が考え出した概念であるということもできる。
日本の文献からは九州王朝の存在を具体的な形で見出すことはできない。
しかし中国や朝鮮に残る史料をしっかりと読んでいくと、
九州王朝の存在を確認することができる。
隋書俀国伝の「日出る処の天子」は
阿蘇山が見える地域の国の天子であると書かれている。
九州王朝の天子であることは間違いない。
7世紀初めに隋と交渉していたのは九州王朝だったということである。
九州王朝は白村江の敗戦で急速に衰えていく。
変わって台頭してきたのが、
白村江の戦の直前に参戦を回避した近畿天皇家である。
ここからは仮説だが、
九州王朝が安曇族と行動を共にしながら、
安曇野の地に亡命していた可能性がある。
続日本紀に記述されている
「山沢に亡命」している勢力は
安曇野に亡命した九州王朝の最後の勢力だったかもしれない。
近畿天皇家は武器と禁書を持って亡命していた
九州王朝の残勢力を一掃して禁書を回収し
九州王朝の痕跡を根絶した後、
720年養老日本紀(日本書紀)を完成し、
近畿天皇家にとって都合が良い「削偽定実」を作り上げた。
【近畿天皇家と仁科氏の関係:皇極太子とは誰か】
安曇野の安曇族と九州王朝の残勢力を攻撃し壊滅したのは仁科氏だった。
「仁科濫觴記」によると、
仁科氏は仁科城主として派遣された皇極太子の3歳の子を祖としている。
皇極太子は天武帝に比定されている。
つまり仁科氏は天武帝の子孫ということになる。
正史では、皇極帝の太子は中大兄皇子である。
仁科濫觴記があえて天武帝に比定できる形で
皇極太子という言葉を選んだことは実に興味深い。
皇極帝、天武帝を舒明帝、天智帝以上に尊重する事情があった、
ということかもしれない。
【安曇氏と仁科氏の代理戦争】
天武帝の血を引く仁科氏によって、
安曇野にいた九州王朝の残勢力が壊滅を余儀なくされた。
安曇野の地において、
九州王朝と近畿天皇家の代理戦争が
安曇氏と仁科氏によって行われ、
仁科氏が勝利したことによって安曇氏と共に、
安曇氏に匿われていた九州王朝の残勢力が壊滅した。
八面大王が田村利仁将軍によって退治された物語は、
九州王朝&安曇族が近畿天皇家の臣下である仁科氏によって
滅ぼされた史実を反映しているのかもしれない。
【安曇野から信濃への地名変更】
安曇族が入植して開墾して作り上げた地域を「安曇野」と呼んでいた。
8世紀初めに安曇族を滅ぼしてこの地を征圧した仁科氏は、
安曇族の地=「安曇野」という名前を嫌い、
仁科氏の地=仁科野→「科野」と改名したのだろう。
「科野」が後に「信濃」となって現在に至っている。
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2013年06月13日
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