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【八面大王伝説の骨子】
八面大王の物語の概略は以下のとおりである。
いくつかのバリエーションがあるようだが、大同小異と考えて良いのではないだろうか。
●昔中房山に「魏石鬼」がいて、人々を苦しめていた。
●「魏石鬼」は「義石鬼」とも言い、「八面大王」と称した。
●坂上田村麻呂がこれを征伐したという。
●田村利仁将軍が桓武天皇の頃たびたび東夷を征伐したというので、
この中の一つだろう。
●しかし田村利仁将軍が信濃国で夷賊を征伐した記録はない。
●旧俗の言い伝えに従ってここに載せることにする。
●松川組宮城という所に「魏石鬼の岩屋」と呼ばれる遺跡が今も
存在している。
●退治された八面大王の体は生き返らないようにバラバラにされ、
足を埋めたとされるのが「立足」の地名として残り、
胴を埋めた二つの「大王神社」(大王わさび田と狐島)
耳を埋めた「耳塚」。
【九州にも同様な伝説があった】
八面大王伝説は長野県の安曇野地方に残っているが、同様な伝説が九州にもあることが知られている。
宮崎県の高千穂に以下のような鬼八伝説がある。
高千穂の鬼八塚 (首塚)
神武天皇の兄、三毛入野命(ミケヌノミコト)は、神武建国の途中でもとの国、高千穂に御帰還され、留守中にこの地方を支配していた鬼八(きはち)荒神との間で激しい戦いが繰り拡げられました。
鬼八荒神は命に退治されましたが再び生き返り、抵抗して暴威をふるったので、命は神体を三つに切って三箇所にわけて埋めました。
この場所はその首塚と伝えられています。
荒振る神鬼八は霜宮といい、寒霜を司ったので、今では農耕や、厄除けの神として尊敬され日向、肥後地方の里人の信仰を集めております。 昔から鬼八荒神の霊を慰める為、毎年16歳の少女が人身供養として捧げられていましたが、天正年間岩井川の城主甲斐宗摂の進言により、初狩りの猪一頭、米飯三石三斗三升三合が代わりに供えられて以来、この神事は高千穂神社の猪掛祭(ししかけまつり)として現在も伝えられています。 熊本の阿蘇地方にも主人に逆らった鬼八が成敗されて生き返らないようにばらばらにして生められるという「鬼八伝説」があるという。
【勝者の大義名分=正当化のための物語】
「悪行を働く八面大王or鬼八を権力者が退治して、二度と生き返らないようにばらばらにして埋めた。その後平和な世の中が訪れた。」
大筋では共通している。
近畿天皇家が日本を統一する時に、服することのない逆賊を一掃することに全力を挙げた。
特に前政権を担っていた九州王朝の残勢力については念入りに勢力が回復することができないように壊滅をはかった。
近畿天皇家は九州王朝の残勢力が悪行を働いたので、やむを得ず成敗したという物語を残すことによって、自分たちの行為を正当化したものと考えられる。
【八面大王はやはり九州王朝の残勢力か】
八面大王=八女大王は九州から信濃へやってきたのではないか、と推理してきたが、九州に同様な話が残されていることは単なる偶然ではないだろう。
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2013年06月14日
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