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【日本書紀の「鼠」は遷都の兆しだけの意味か】
孝徳紀には「鼠」を含む文章が五回出てきている
「老人等相謂之日、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」
(大化元年冬十二月条)
「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」 (大化二年是歳条)
「数年鼠向東行、此造柵之兆乎」 (大化三年是歳条)
「鼠向倭都而遷」 (白雉五年春正月朔条)
「老者語之曰、鼠向倭都、遷都之兆也」 (白雉五年十二月条)
日本書紀岩波版の注は、
「北史巻五・魏本紀」に「是歳二月、・・・群鼠浮河向鄴」とあって、鄴への遷都の兆としている、と述べている。
日本書紀の「鼠が移動する」記事は北史に倣った表現をしていると解説している。
【越国の海岸に着いて東へ向かったのは誰か】
大化元年冬十二月条には孝徳帝の難波長柄豊碕宮遷都が出ているので、同条の「自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」が孝徳帝の遷都のことを言っていると考えて見過ごしてしまう。
しかし、その直後に、「越国言、海畔枯査、向東移去、沙上有跡、如耕田状」と出てきている。
この文章は孝徳帝の遷都との関連が不明である。
「枯査(いかだ:ボロ船のことか)が海岸に着いて、東に向かって移って行き、砂浜には田圃の畝のような跡が残った、と越の国では言っている。」
ということを意味している。
この文章は大化二年是歳条の次の文章とセットではないかと思われる。「「越国之鼠、昼夜相連、向東移去」
越国の二つの文章を合わせて解釈すると、
「越国の海岸に船で着いた連中が、昼も夜も次々に東に向かって移動して行っている」
ということになる。
【九州王朝残勢力の「山沢への亡命」】
越国を糸魚川とすると、東へ向かい姫川を遡って行き、さのさか峠を越え大町を経て安曇野に到着する。
九州王朝の人々の信濃への移動のことを言っているのではないだろうか。人々が越国からどんどん東へ向かったのが、白村江の戦の前なのか、近畿天皇家への政権移行が決定して、身の危険を感じた後なのかは判然としない。
「昼夜相連」という緊迫感からすると、近畿天皇家の迫害から逃れて、「山沢へ亡命」する時の様子かも知れない。
大化三年是歳条の「数年鼠向東行、此造柵之兆乎」は、「渟足の柵造営」記事の直後に出てきているので関連を考えてしまうが、近畿天皇家に対する防衛柵を九州王朝の残勢力(=八面大王)が安曇野に造ろうとしている、と解釈することもできるだろう。
【白村江の戦の前、九州王朝には副都計画があった】
白雉五年正月と十二月に出てくる「鼠向倭都」は、九州王朝の副都構想(天武紀十二年十二月十七日条「凡そ都城、宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。」)にあるように、信濃以外に近畿天皇家のおひざ元(=倭都)にも副都を計画していたのかもしれない。
【「鼠族」と呼ばれた八面大王は九州王朝の残勢力】
「仁科濫觴記」では八面大王の集団に対して「鼠族」と呼んでいる。
近畿天皇家が九州王朝のことを「鼠」と蔑んでいたことを受けて、仁科氏内部でも同じ呼び方をしていたと考えられる。
日本書紀に出てくる「鼠」は、全て九州王朝のことをさしているのではないかと考えてみる必要があるのではないだろうか。
上記以外に、
皇極二年十一月条に、「鼠伏穴而生、失穴而死」
天智元年夏四月条に、「鼠産於馬尾(鼠、馬の尾に産む)」
天智五年是冬条に、 「京都鼠、向近江移」
日本書紀には何度も「鼠」は出てきている。
【安曇野松川村に、現在も地名として残る「鼠穴」】
男性長寿日本一となった北安曇郡松川村には、「鼠穴」という地名が今でも残っている。
八面大王一族が住んでいた辺りだという説がある一帯である。
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2013年08月16日
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