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【日本書紀は古事記の若沼毛二俣王系譜を削除した】
倭建命から応神帝を経て継体帝につながる古事記の若沼毛二俣王系譜は、
日本書紀では全く無視されている。
古事記にとっては最も根幹となる息長氏正当化の主張だったものが、
日本書紀から削除されているのだ。
【稚野毛二派皇子に関する日本書紀の記述】
日本書紀には「稚野毛二派皇子」は二か所に出てくる。
応神二年春三月条、応神帝の20人の皇子女のひとりとして、
「次妃河派仲彦女弟媛、生稚野毛二派皇子」とある。
古事記が応神記の最後に応神帝の後世につながる系譜のひとつとして、
若沼毛二俣王が母の妹百師木伊呂辨(亦の名弟比売真若比売命)を娶って、
大郎子(亦の名意富富杼王)を生み、
意富富杼王が「三国君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、
筑紫の末多君、布勢君等の祖」と、
天武八世で真人姓を与えられた有力氏族の始祖とされていることを
特記しているのとは明らかに立場を異にしているのである。
日本書紀に稚野毛二派皇子の名前が出てくるもう一か所は、
安康紀冒頭である。
安康帝の母忍坂大中姫命が「稚渟毛二岐皇子之女也」と記されている。
皇后の父親として記されている。
応神紀の「稚野毛二派皇子」と安康紀の「稚渟毛二岐皇子」に2文字違いがあるが、意図的なものかどうかは不明である。
【日本書紀はなぜ若沼毛二俣王系譜を削除したか】
記・紀の若沼毛二俣王に関する記述の違いの原因としては、
古事記が息長氏の天武帝の出身氏族としての優位性を主張するために
造作した系譜を日本書紀の編纂者が否定したものと考えている。
若沼毛二俣王系譜を封印するために古事記は禁書扱いされて、
正史(続日本紀)に全く触れられずに無きものとされてしまったのだろう。
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2015年02月13日
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