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【日本書紀が聖徳太子を創作した理由】
聖徳太子実在・非実在論に陥りかけたが、本題に戻さなければならない。
本題は日本書紀がなぜ聖徳太子像を作り上げなければならなかったか、
ということである。
【聖徳太子が受け入れた仏教】
聖徳太子が受け入れた仏教について考えてみよう。
推古朝において聖徳太子が摂政として十七条憲法や冠位十二階に制定を行い、
仏教の興隆に尽力して日本を近代化したと記されていることには、
二つの理由が考えられる。
一つは日本書紀を額面通り解釈して、
崇仏・排仏戦争を経て蘇我馬子と聖徳太子が
仏教興隆に力を入れたという史実があったと考えること。
もう一つは九州王朝論である。
6世紀から7世紀にかけて百済と付き合っていたのは九州王朝であるから、
仏教は近畿ではなく九州王朝への伝来であった。
近畿は仏教後進地域だった。
【聖徳太子は高句麗僧を師とした】
701年に日本国を建国した天皇家は唐に対して、
聖徳太子の時代から仏教を取り入れていたことにする必要を感じ、
日本書紀に聖徳太子説話を作り上げて挿入した。
日本書紀は聖徳太子の仏教の師を高句麗僧の慧慈であるとしている。
倭国には仏教は百済から公伝されている。
高句麗仏教と百済仏教は源流が違う。
高句麗には五胡十六国の前秦から伝わった中国北朝の仏教、
百済には江南の東晋から南朝の仏教が伝わっている。
日本書紀の編纂者は聖徳太子が受け入れた仏教は、
唐と同じ北朝の仏教にしなくては都合が悪かった。
【倭国に伝わったのは百済経由の南朝仏教だった】
仏教公伝が百済から近畿に対して行われたものであるなら、
聖徳太子の仏教も南朝の仏教でなければならないだろう。
法隆寺が南朝尺で建設されているという川端俊一郎氏の研究も興味深い。
(川端俊一郎著「法隆寺のものさし―隠された王朝交代の謎」、
2004年、ミネルヴァ書房)
聖徳太子が建てたといわれる法隆寺は九州からの移築であったと記されている。
法隆寺の柱の太さや柱と柱の間隔などが
南朝尺によって測られていることを証明している。
法隆寺が、聖徳太子が建設したということと南朝尺でできていることは
明らかに矛盾しているのである。
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2015年03月15日
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