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【日本書紀が聖徳太子を創作した理由】
なぜ日本書紀は聖徳太子像を作り上げたか、
についていくつかの根拠をあげてきた。
●6〜7世紀の近畿エリアは仏教後進地域だったから、
仏教興隆の象徴を作り上げる必要があった。
●壬申の乱に勝って近畿の支配者になった息長氏出身の天武帝には
仏教はほとんど無縁だった。(出家したのは政治的行動であって宗教とは無関係)
●崇仏派の推進役だった蘇我氏主流は滅ぼされた。
以上のような理由で日本書紀が6世紀後半から、
近畿エリアでも仏教が盛んであったことを本当らしく見せるためには、
仏教需要の実績がある蘇我氏系の天皇と皇子の存在が必要だった。
【聖徳太子に適した人物の選定と聖徳太子説話の作成】
蘇我氏出身の后を母とする用明帝(在位二年)と
崇峻帝(在位5年目に殺害される)は存在感が薄いので、
在位期間が長かった女帝である推古帝の摂政となった皇子厩戸を
近畿仏教の推進者である聖徳太子として配役した。
本来であるならば息長氏系の彦人大兄皇子を仏教推進者にしたかったのだろうが、排仏派である敏達帝の皇子であり早世していることから、
不適当とせざるを得なかった。
近畿天皇家の祖である彦人大兄皇子を排仏派にすることはできないので、
崇仏派のメンバーだったことにするのが精いっぱいだったのではないか。
九州王朝の仏教受容説話に厩戸皇子を挿入することによって、
聖徳太子説話の根幹を作り上げたのだろう。
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2015年03月16日
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