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【宮崎平野の古墳群は「投馬国」か「狗奴国」か】
魏志倭人伝に、「投馬国」と「狗奴国」が出てくる。
投馬国は「不彌国」から「水行二十日」の場所にあり、
長官は彌彌といい副官は彌彌那利で家の数は5万余戸であるという。
狗奴国は女王国より以北に女王国に属する21か国が列挙された後、
「その南」にあると記されている。
男子を王として長官は狗古智卑狗といい女王に属していない。
生目古墳群、西都原古墳群、新田原古墳群を有する宮崎県に存在した
古代の勢力はいずれであろうか。あるいはいずれでもないのか。
女王国が北部九州で女王国の境界の南に接している狗奴国が
宮崎県の勢力だとすると宮崎県の高千穂峡あたりが境界線だとしても
両国はかなりの広い範囲を領土としていたことになる。
投馬国までの水行二十日を海岸沿いに南に向かう日数とすると、
北部九州の港から宮崎市あたりまでと考えることはできそうだ。
5万余戸を包含するスペースは宮崎平野には十分ある。
前方後円墳の時代区分から考えると、
その頃宮崎平野を統治していたのは生目古墳の被葬者一族ということになる。
【卑弥呼の墓は径百余歩の円墳】
卑弥呼が死んだ後、「大作冢径百余歩」としるされる。
大きな墓を作ったのではなく、「大いに」墓を作ったのである。
「径百余歩」せいぜい10〜20mの直径であろう。円墳である。
前方後円墳が始まる前夜であった。
3世紀後半から北部九州で前方後円墳の造営が始まる。
石塚山古墳(福岡県京都郡苅田町)は3世紀中頃から末にかけて造成されたと
考えられる初期の大型前方後円墳(墳長110m)であるが、
卑弥呼の時代より降ってからの造成であろう。
石塚山古墳が3世紀末までに存在していたとなると、
卑弥呼の国か卑弥呼の国と争っていた狗奴国しか考えられない。
周防灘に一大勢力があったことは確実であろう。
投馬国まで水行二十日の記事と合わせて考えると、
卑弥呼の国は苅田町近辺にあったことになる。
魏志倭人伝に記された里程などを考えると確信は持てないが、・・・。
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2015年08月22日
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