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【近畿勢力と九州勢力の争い】
奇抜な発想と感じる人も多いと思うが、7世紀後半において近畿地方で勢力を伸ばした息長氏を中心とする勢力が九州から東遷してきた倭国の中心勢力だった蘇我氏等を制圧・併合して日本国ができたのではないかという仮説をもっている。
天武天皇と持統天皇の結婚、それが息長氏が蘇我氏を取り込み始めた段階であり、天武天皇の崩御後蘇我氏に従属していた中臣氏(藤原氏)が
持統天皇をバックアップすることによって頭角を現し、日本国が建国される701年頃には実質的な政治権力を手に入れ始めていた。
【八色の姓の構造】
天武天皇が天武13年(684年)に制定した八色の姓は、息長氏を中心とした13氏が「真人」となって最高位となり、蘇我氏を中心とした九州から東遷してきた勢力(武内宿禰の子孫を称する)が「朝臣」となって従い、近畿地方に先住していた勢力(饒速日命の子孫を自称)が「宿禰」となって第3位に位置し、先進文明・技術を有する渡来氏族たちを第4位の「忌寸」に当てはめた。
天武天皇との関係や壬申の乱における貢献度などによって多少の相違は生じているが、八色の姓を大きな概念で捉えると以上のようなことではなかろうか。
【持統天皇&藤原不比等による巻き返し】
天武天皇が生存している時は八色の姓は十分現実を反映したものであったし、
天武天皇が抱いていたヒエラルキーそのものだったに違いない。
崩御後天武天皇の思惑通り大津皇子が即位していれば、八色の姓をベースとした律令制が成立したのかもしれない。
しかし蘇我氏出身の持統天皇は納得していなかった。
持統天皇の本心を知った藤原不比等は、大津皇子殺害→持統称制→(草壁皇子即位)のプランを提案し持統天皇に取り入ることに成功した。
草壁皇子の息子(文武天皇)に娘の宮子を嫁入りさせ、文武天皇崩御後に宮子所生の聖武天皇が即位年齢になるまで元明天皇(文武天皇の母)、元正天皇(文武天皇の姉)を即位させたのも藤原氏が外戚としての最高位を獲得するための不比等の画策であった。
【「古事記」と「日本書紀」の差異を見る】
日本の古代史を研究するためには、「古事記」と「日本書紀」を避けては通れないことは言うまでもない。
序に書かれているように「古事記」は天武天皇の意思を強く反映しており、「日本書紀」には持統天皇の意思を発展させて律令制を確立しようとした藤原不比等の考え方が反映されている。
「日本書紀」が献上された後「古事記」が禁書扱いされて公式の場から消えてしまったのも日本書紀編纂者の意思によるものであるに違いない。
幸運なことに「古事記」は後に発見されたので、「古事記」と「日本書紀」の記述の違いを見ることによって歴史の真実をあぶりだすことができる。
次回はその視点で継体天皇の出自を見てみようと思う。
To be continued
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2016年04月21日
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