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【継体天皇の出自に関する記・紀の記述の相違】
系譜に詳しい古事記が天皇の父母を明記していないのは継体天皇だけである。
(オケ・ヲケ説話の顕宗天皇・仁賢天皇は父の名だけが記され母は不明)
日本書紀には古事記の「譽田天皇五世孫」を踏襲し、さらに父「彥主人王」、母「振媛」と記す。
振媛については、「活目天皇七世之孫」と詳しい。
父と母のなれそめについても記されている。
父の彥主人王が振媛という「顏容姝妙甚有媺色」(端麗な美しさを持った)美人が
いると聞いて、近江國高嶋郡三尾之別業から遣いを出し、三國坂中井に迎えて妃とした。
振媛は継体天皇を出産したが、間もなく彥主人王は薨じてしまった。
振媛は身寄りのないところで育てることに不安を感じ、「高向の親元に帰って育てようと思う」と言って実家に戻った。
継体天皇は壯大で、士を愛し賢を禮し、意が豁如だった。
(人を愛し賢明さを敬い豊かな気持ちをもっていた。)
継体天皇が57歳の時(武烈8年)、武烈天皇が崩御し、武烈天皇には子供がいなかったため後継ぎが絶えてしまった。
【なぜ記・紀の記述は異なるのか】
日本書紀の記述は古事記に比べて詳細である。
古事記編纂者の手元に継体天皇に関する情報がなかったためか、あったにもかかわらず何らかの理由で掲載しなかったのか、あるいは日本書紀の編纂者が漢籍から文章を引用して都合よく作り上げたか、いずれかであろう。
継体天皇の出身地について古事記では「淡海国」と限定しているが、日本書紀では「近江國高嶋郡三尾之別業」、「三國坂中井」が父彥主人王の根拠地であり、
継体天皇自身は越前國高向の母の実家で育ったことになっている。
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2016年04月22日
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