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【継体天皇の祖先や子孫を始祖とする「真人」賜姓氏族】
武烈帝と継体帝の間に王朝の断絶があったことに注目してきた。
すでに多くの研究者が指摘していることである。
天武13年に発布された八色の姓の最上位である「真人」13氏が、継体天皇の祖先や子孫を始祖としていることは姓氏録などからうかがうことができる。
●応神天皇の孫意富富杼王(父は稚野毛二派皇子、母は咋俣長日子王の女息長弟日売真若比売) を始祖としている氏族が5氏(古事記) 。
:三国公、羽田公、息長公、酒人公、山道公
●継体天皇の皇子である椀子皇子(母:三尾君堅楲女倭媛)を始祖としているのは1氏(日本書紀・姓氏録)。:三国公
●継体天皇の皇子である中皇子(母:根王女廣媛)を始祖としているのは
1氏(日本書紀・姓氏録)。 :坂田公
ただし、古事記には継体天皇の皇子に中皇子は出てこない。
●継体天皇の皇子である兎皇子(母:根王女廣媛)を始祖としているのは
1氏(日本書紀・姓氏録)。 :酒人公
●宣化天皇の皇子上殖葉皇子(母:億計天皇女橘仲皇女)を始祖としているのは
2氏(日本書紀)。 :丹比公、猪名公
●敏達天皇皇子難波王(母:春日臣仲君女老女子夫人)を始祖としているのは
2氏(姓氏録)。 :守山公、路公
●用明天皇の皇子麻呂子皇子(母:葛城直磐村女広子)を始祖としているのは
1氏(日本書紀・姓氏録)。 当麻氏 麻呂子皇子は古事記に記載がない。
ただし古事記には用明天皇の皇子に当麻王がいるので、何らかの関連があるのかもしれない。
以上11氏が何らかの形で系譜が掲載されている。
●高橋真人と茨城真人は系譜未詳である。
【13氏中11氏が継体天皇前後の皇子を始祖としている】
「真人」13氏のうち、5氏 (三国公、羽田公、息長公、酒人公、山道公)が 継体天皇の祖先である応神天皇の孫意富富杼王を始祖としている。
継体天皇が応神天皇の五世孫とする記・紀の記述に合致する。
3氏(三国公、坂田公、酒人公)は継体天皇の皇子(椀子皇子、中皇子、兎皇子)、
2氏(丹比公、猪名公)は継体天皇の2代後に即位した継体天皇の子宣化天皇の皇子上殖葉皇子、2氏(守山公、路公)は継体天皇の孫敏達天皇の皇子難波王、
当麻氏は継体天皇の孫用明天皇の皇子麻呂子皇子、
を始祖としている。
三国公と酒人公は古事記と日本書紀(姓氏録)で見解が分かれるために重複している。
系譜未詳の高橋真人、茨城真人以外の11氏が継体天皇に関連する人物を始祖と仰いでいることがわかる。
【真人13氏は壬申の乱の勝者】
この13氏が壬申の乱の勝者である。
大同2年(807年)に撰上された『古語拾遺』には、八色の姓は「唯当年之労をのみ序(つい)でて、天降之績に本づかず。」とあり、壬申の乱の功労によって八色の姓は定められたと記述されている。
【壬申の乱と継体天皇の関係は?】
「真人」を賜姓された氏のほとんどが継体天皇周辺を始祖としているのはなぜだろうか。
たまたま継体天皇の子孫たちが血縁関係を頼りに団結して壬申の乱を戦ったということなのだろうか。
あるいは氏素性を重視する姓なので天武天皇が継体天皇につながる氏族を選定して「真人」を賜ったのか。
あるいは「真人」を賜姓された氏族が継体天皇につながる系譜を作り上げたか。
有力な選択肢はそのくらいだろうか。
【息長氏と蘇我氏】
私論では、記・紀の継体天皇の記述は近江国を本拠地としていた息長氏が近畿一円に進出したことを原史料として発展させたものであり、近江朝廷を滅ぼした天武軍は息長氏勢力を主力にした勢力であり、真人を賜姓された氏族は天武軍に加担していたと考えている。
壬申の乱に勝利したのが息長氏で、敗れた近江宮にいたのが蘇我氏、中臣氏であった。
乱後の右大臣中臣連金処刑、左大臣蘇我赤兄配流がそのことをあらわしている。
天武天皇崩御後、蘇我氏から嫁いだ持統天皇は中臣氏の生存者である不比等の協力を得て方向転換を行った。
大津皇子殺害に端を発した持統天皇のクーデターとでも言うべきであろうか。
その一環として、蘇我氏を石川氏と改めて朝廷内で勢力を維持拡大させ、中臣氏は藤原氏と改めて律令政治で実権を握ることになる。
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2016年04月23日
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