のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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「槻樹之下」】
皇極3年正月 「中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶」法興寺槻の樹の下
(中大兄と中臣鎌子の出会い)
斉明3年7月15日 「作須彌山像於飛鳥寺西」飛鳥寺の西
(覩貨邏人が飛鳥寺の西に須彌山像を作った)
大化元年6月19日 「天皇・皇祖母尊・皇太子、於大槻樹之下、召集群臣、盟曰。」(乙巳の変の後即位した孝徳天皇、皇祖母尊=皇極前天皇、中大兄は群臣たちを大槻樹之下に集めて、君主は一人しかいないこと、臣下には二心=裏切ることがないことを誓わせた。)
天武元年6月29日 「留守司高坂王及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下、爲營。」
(壬申の乱の戦いが始まったころ近江軍は飛鳥寺西槻下を飛鳥の本営とした。)  
「爰、百足乘馬緩來、逮于飛鳥寺西槻下、有人曰下馬也。時百足、下馬遲之。」
(近江軍の穂積臣百足はで天武軍に捕らえられて斬り殺された。)
天武6年2月 「是月、饗多禰嶋人等、於飛鳥寺西槻下。」
(来朝した多禰嶋人等を飛鳥寺西槻下で饗応した。)
天武9年7月1日 「飛鳥寺西槻枝、自折而落之。戊寅、天皇幸犬養連大伴家以臨病、卽降大恩、云々。是日、雩之。」
飛鳥寺西槻枝がひとりでに折れて落ちてしまった。この月に飛鳥寺の弘聡僧、壬申の功臣三宅連石床、舎人王が相次いで亡くなっている。)
天武10年9月14日条 「饗多禰嶋人等于飛鳥寺西河邊、奏種々樂。」
(来朝した多禰嶋人たちを飛鳥寺西河邊で饗応した。)
天武11年7月27日条 「饗隼人等於明日香寺之西、發種々樂、仍賜祿各有差。」(隼人たちを明日香寺之西で饗応した。)
持統2年12月12日 「饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下、仍授冠位、賜物各有差。」
(蝦夷男女二百一十三人を飛鳥寺西槻下で饗応した。)

法興寺槻樹之下、飛鳥寺西槻下、明日香寺之西】
中大兄と中臣鎌子の出会いの場となった法興寺槻樹之下は大化元年に群臣たちに「二心なきこと」を誓わせた大槻樹之下と同義であろう。
覩貨邏人が須彌山像を作った飛鳥寺西は覩貨邏人が筑紫に漂着しているので筑紫・明日香であろう。
多禰嶋人を饗応した飛鳥寺西槻下、飛鳥寺西河邊は「覩貨邏人が須彌山像を作った飛鳥寺西」に迎賓施設を作ったのではないか。
隼人を饗応した明日香寺之西、蝦夷男女二百一十三人を饗応した飛鳥寺西槻下はみな同一場所を指している。
隼人を饗応した明日香寺之西、の「明日香寺之西」が原資料のままの表示で筑紫の明日香にあった明日香寺のこと。

【筑紫の法興寺、明日香寺が大和の飛鳥寺=法興寺になった。】
壬申の乱において大和地区での攻防の場所となった飛鳥寺西槻下は上記の筑紫・明日香寺を近江朝廷が移築して飛鳥寺を再建したものかもしれない。
中大兄と中臣鎌子の出会いの場となった筑紫・法興寺も大和に移転されている。
筑紫ではもともと別の寺だった明日香寺と法興寺が移築されて飛鳥寺=法興寺となったのではないか、乱暴な仮説にすぎないがそんなことを考えている。

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