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【宮と京について】
現在では国の政治の中心地は首都であり、「都」という単語が中心地を表す言葉として使われる。古代においては、古事記や日本書紀では天皇が変わるたびに「宮」の場所も移動している。時には一人の天皇がいくつもの宮を転々とすることもあったらしい。
日本書紀では皇極4年正月条の細注に、
「舊本云。是歲、移京於難波、而板蓋宮爲墟之兆也。」とあり、板蓋宮から難波京へ移る兆しであるとの表現が出てくる。
考古学的な発掘では板蓋宮は飛鳥の中ほどの田畑の中に発見された建物跡だが、難波京は上町台地に発掘されつつある前期難波宮と呼ばれる広大な遺跡である。前期難波宮の設営時期については異論があるようだが近畿地方においては7世紀中ごろ以降に唐の条坊制をまねた都づくりが行われ始めたことは史実と考えてよいだろう。
【7世紀後半の「京」の址】 近畿地方には7世紀に建設された京の址として、「前期難波宮」、「近江大津宮」、「藤原京」が発見されている。
日本書紀では「前期難波宮」は孝徳朝の設営、「近江大津宮」は天智天皇、「藤原京」は持統天皇が完成させたことになっている。
【宮→京が不連続な日本書紀の記述】 「宮」が天皇の住まいを中心とした施設、「京」が官僚組織を前提とした施設であるとすると、日本書紀の記述が不連続であることに気が付くであろう。
日本書紀では孝徳天皇→斉明天皇→天智天皇→天武天皇→持統天皇と変遷する。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮、
斉明天皇は飛鳥川原宮、飛鳥岡本宮(火災)、朝倉橘広庭宮、
天智天皇は「近江大津宮」、
天武天皇は飛鳥浄御原宮、
持統天皇は飛鳥浄御原宮→「藤原京」。
日本書紀は天皇ごとの宮の変遷を概略以上のように記している。
この中で孝徳天皇の難波長柄豊碕宮、天智天皇の「近江大津宮」、持統天皇の藤原京は官僚組織を前提とした都づくりがなされているが斉明天皇の飛鳥川原宮、天武天皇の飛鳥浄御原宮は天皇の住居の域を脱していないことが発掘調査からわかる。
7世紀後半のこの日本書紀が記す宮と京の不連続が何を表しているのか、倭国から日本国への移行を解明する上で重要な問題であると考えられる。 |
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2018年01月15日
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