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【くりかえされた強引な皇位継承】
701年、文武天皇のときに日本国は正式に誕生した。
文武天皇の即位も容易ではなかったが、崩御後の元明、元正を経て聖武即位までの道筋は非常に険しいものだった。
天武崩御後大津皇子を殺害したために日本国は天皇の即位をめぐって大変な難産を繰り返すのだった。
難産の皇位継承をどう乗り切ったかをなるべく簡単にまとめてみる。
【文武天皇の即位】
701年、大宝律令の完成を以て倭国=九州王朝は完全にその姿を消し、初代文武天皇を頂点とした日本国=大和朝廷が支配する律令国家が始まった。
しかし文武天皇は大王の息子でもなく、壬申の乱で近畿地方の支配権を獲得した天武の孫でしかなかった。
文武が天皇として即位する資格を有していることにするには父親の草壁が天武の嫡子であることを明確にすることが必要だった。
なぜなら当時の天皇、あるいは大王の即位資格は記・紀に記されていることが一般的に承認されていた。
【日本書紀に記された即位の考え方】
日本書紀は推古天皇までは古事記が作成した天皇系譜をそのまま採用しており、天皇即位の考え方の基本はその中に記されている。
天皇即位資格① 天皇の息子:推古までの33代の内神武を除く32代中20例。
天皇即位資格② 天皇の兄弟(妹) 仁徳の皇子3兄弟、安康の弟雄略、顕宗の兄仁賢、継体の皇子3兄弟、欽明の子供4兄弟妹の5ケース9代(兄弟継承の最初は天皇の息子)
天皇即位資格③ 天皇にならなかった嫡子(皇太子格)の息子2例(日本武尊→仲哀、市邊押磐皇子→顕宗)
天皇即位資格④ 応神の5世孫(継体)1例
以上①20名+②9名+③2名+④1名=33名
文武の即位は③に当てはまる。
そのためには、父親の草壁皇子が天武の嫡子or皇太子である必要があった。
【「吉野の盟約」と「草壁立太子」記事の創作】
草壁皇子が嫡子であって皇太子であることを証明するために、日本書紀は「吉野の盟約」→「草壁立太子」記事を挿入した。
さらに説得力を高めるために厩戸皇子を皇太子として推古の摂政とし皇太子の息子である山背大兄にあたかも皇位継承資格があるかのような推古崩御後の皇位継承争いを記載した。
山背大兄の対抗相手となった田村皇子も敏達天皇の嫡子彦人大兄皇子で、嫡子は即位していなくてもその息子が即位資格を有していることを強調しようとしている。
「吉野の盟約」の不審点
草壁は大津よりも年上か 持統称制前紀の草壁の生年表記によると、草壁は天智即位元年(668)に大津宮で生まれている。
大津皇子は朱鳥元年(686)に24歳で死去している(懐風藻による)ので、天智称制2年(663)生まれと推定される。
さらに懐風藻では大津皇子の段の序に「皇子は浄御原帝の長子なり」と記されている。
草壁は壬申の乱の開戦前夜、吉野から東国へ脱出すら際、母の持統の保護下で行動しており、まだ自立できる年齢ではなかったことがうかがえる。
高市と大津は近江宮を脱出し山越えで天武軍に合流している。
したがって吉野の盟約で長幼の順で草壁が大津より上位に位置付けられることはない。
「草壁立太子」の不審点
草壁立太子記事(天武10年2月25日是日条)の2年後の天武12年2月1日条に「大津皇子が始めて朝政を聴く」の記事があり、天武後継がどちらかわからなくなっている。
草壁立太子記事は「是日条」に記されており後から挿入された感が強い。
【無理を通した元明即位と「不改常典」】
文武の即位は草壁の立太子記事で説明がついても、元明の即位の類例は全くなかったし、創作することも不可能だった。
文武が崩御した時(慶雲4年、707)、首皇子(聖武天皇)は7歳、当時の常識では即位には早すぎる年齢だった。文武に適当な後継者がいないのなら、この時点では磯城皇子、長皇子、舎人皇子、新田部皇子、穂積皇子などの天武の皇子たちが生存しており、誰が皇位に就いてもよい状況ではあった。
そのような環境の中で、文武の母親である阿陪皇女(元明天皇)を即位させることは大変な力技を要したことは想像に難くない。
どこを探してみても天皇の母親が皇位を継承したケースは見当たらないのだから。
そこで登場するのが即位宣命の中の「不改常典」である。
天智天皇が定めた法律に従っていると宣言し、内容についてはついに現れることはなかった。
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2018年08月29日
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