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【天武の妻・皇子・皇女が同じ年に死亡している例】
日本書紀に記された天武天皇の妻は10名、皇子は10名、皇女は7名である。ここに記された人々の生年は一部を除いて不明であるが、没年については続日本紀などにも記載されているので2名(磯城皇子、紀皇女)を除いて判明している。
上記27名の没年を眺めていて気になったことがある。同じ年に死亡しているケースが3例見られるのである。当時は伝染病などが発生することが多く、藤原四兄弟のように同年に死亡することが現在ほど稀なことではなかったであろう。しかし伝染病が流行した場合は該当する当事者以外の死亡も報告されているはずなので、他に例がない場合は一応疑ってみる必要はあるのではないだろうか。
ここでいう3例とは以下の通りである。
①文武3年(699年):弓削皇子(7月21日没、以下没は省略する)、新田部皇女(9月25日)、大江皇女(弓削皇子の実母、12月3日)
②和銅8年(霊亀元年、715年):長皇子(弓削皇子実兄、6月4日)、穂積皇子(7月27日)
③天平7年(735):新田部皇子(9月30日)、舎人皇子(11月14日)疫病流行か
【正史には記されない死亡の事情】
①のケースは、梅原猛が『黄泉の王』で高松塚古墳の被葬者に比定している弓削皇子が該当する。弓削は持統7年(693)に初従位していることから生年を天武2年(673)と推定する説に従うと享年は27歳となる。弓削は高市皇子が薨去した後の日嗣を決める会議で異議を挟もうとして葛野王に叱責される事件を起こしている(懐風藻、葛野王の段)。弓削が死去した同じ年の12月に実母の大江皇女も没している。新田部皇女も同年に死去しているので、弓削皇子が死去した同じ年に天武に嫁いだ天智の皇女は持統以外生存しなくなったことになる。
②のケースの長皇子については、梅原が同著の中で日嗣会議の時に弓削が異議を述べようとしたのは兄の長皇子を推そうとしたためと推測している。当時において天武と天智の血を受けている長皇子が有力な皇位継承者であったことは間違いないであろう。草壁皇統を推し進めようとする勢力にとっては目障りな存在であったに違いない。6月に長皇子、7月に穂積皇子が死去すると、二人の死没を待っていたかのように同年9月1日に譲位の詔が発せられて元正天皇が即位することになる。
③のケースについては、同年に疫病が流行していたようなので二人が同じ年に死亡したのは偶然なのかもしれない。
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2019年02月01日
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