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【天武の皇子たちの中で筆頭は誰か】
史料批判である。日本書紀は天武紀下において天武の皇子たち、天智の皇子たちの序列を記している。(天武8年5月5日、吉野の盟約)ここで突然草壁皇子が筆頭に列せられている。天武紀上においては高市皇子が名実ともにナンバー1の活躍をしている。天武紀下でも、天武5年正月4日の官服の配布においても高市をトップとしている。ここまでの記述からは天武皇子の序列は高市を筆頭にして壬申の乱で自立した行動をとった大津が二番手、その他の皇子たちという印象である。
【「吉野の盟約」の史料批判】
ところが吉野の盟約ではいきなり草壁が筆頭となり、以下大津、高市、河嶋、忍壁、芝基の順に記されており、この中には天智の皇子が二人(河嶋と芝基)が入り込んでいる。本文中に記される草壁皇子の宣言の中にここに集まっているのは母は異なってもみんな天武の皇子たちととれる内容が含まれている。「吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹(私たち兄弟年長から年少まであわせて十人余りの王はそれぞれ母を異にするけれど)」の表現には天智の皇子が入ることを前提としていないのは明らかである。草壁の宣言とされる部分と参列した皇子たちの中に天智の皇子を含めたこととは整合しない。この段階で、草壁が筆頭皇子であることと、次世代を担う皇子たちに壬申の乱で敗れたはずの天智の皇子たちの復権が許されていることを正史の中に記しておくことを目的とした作為を見ることができるのである。
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