のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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【文武から聖武へ、女性天皇による継投】
 草壁の皇統維持は困難をきわめたようだ。草壁自身が若くして死去(天智即位元年生まれと考えているので享年22歳)、草壁の息子文武も25歳で早世している。幸か不幸か文武には藤原不比等の娘宮子との間に首皇子(聖武天皇)がいた。慶雲4(707)に文武が崩御した時に首皇子はまだ7歳、当時の常識では即位には早すぎる年齢だった。文武に宮子を嫁がせて首皇子の外祖父となった不比等はどうにかして首皇子を即位させる方法を考えねばならず、文武の母と姉を相次いで即位させる女性天皇による継投策をとることにした。文武の母元明天皇の即位にあたり不比等は天智天皇による「不改常典」を持ち出している。前例のない天皇の母の即位を正当化するために実体のない「不改常典」という概念を掲げて天智天皇のご意思であるとして周囲を黙らせた。

【文武崩御前後の不比等の画策】
  文武は慶雲4年(615日に崩じているが、同年草壁皇子の命日である4月13日を国忌とした後、15日に突然宣命第二詔(第一詔は即位の宣命、文武元年8月)を発布し難波孝徳朝以来の藤原氏の仕えぶりを讃美して不比等に賜封している。元明天皇即位前紀によると、文武は慶雲311月に不治の病となり母の阿閇皇女へ譲位の意思を示したという。不比等にとって最も恐れなくてはならなかったことは、文武が崩じた後首皇子が即位年齢に達する間に生存する天武の皇子たち(長、舎人、新田部、穂積)が即位の意欲を示すことだった。文武が母への譲位の意思を示したこと、草壁の命日を国忌としたことなどは彼らの即位への願望を封じ込めるためである。不比等による画策を疑わなくてはならない。


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