|
【改新の詔はなぜ孝徳紀に記載されているのか】
愚問である。
正史に記されているのはその時代におこったことである、と言い切れるなら改めて考える必要はないが、日本書紀の成り立ちを考えると素直に受け取ることができない一面があることも確かであろう。
日本書紀の編纂には研究者たちの多くが指摘するように、唐などの諸外国に対して一人前の国家としての体裁を認定させる意図があったことは否定できない。
また国内に対しては朝廷内外の有力者に対して現在の天皇(元正天皇)の正当性を主張する目的もあったとされる。
改新の詔については大宝律令と同一の表現を用いている部分が多いことも指摘されている。(吉村武彦『大化改新を考える』など)
孝徳時代に大宝律令と同じ法律が施行されていたということになれば、改新の詔は天智天皇、天武天皇の承認も得ていたと主張できることになり、大宝律令を施行しやすい環境を整えることにつながると考えたとしてもおかしくはない。
一方、実際に日本書紀の記載通り改新の詔が存在し孝徳政権は中央集権体制を志向し始めていたと考えることも可能であろう。
【8世紀初頭の天皇家と孝徳天皇の関係】
日本書紀には乙巳の変の後皇極天皇が退位し、中大兄や古人大兄などの有力後継者が皇位継承を辞退したために孝徳が即位したいきさつが記されている。
そのために孝徳に中央集権を確立するほどの権力の強さはないと考えるのが一般的である。
続日本紀の慶雲四年四月条に記された文武天皇の宣命第二詔には、藤原不比等に賜封する理由として父親の藤原大臣(鎌足)が孝徳に明浄心をもって尽力して以来忠実に仕えていることを述べている。
ところが日本書紀には藤原鎌足が孝徳天皇に貢献した様子は一行も出てこない。
鎌足はもっぱら中大兄=天智天皇の片腕として描かれている。
日本書紀の内容と文武の宣命第二詔の間には大きなギャップがあると言わざるをえない。
不比等は持統の父親である天智を担ぎ上げようとしているので、天智と鎌足の関係を実際以上に強調したであろう。
そのため天智がたもとを分かつことになる孝徳と鎌足の関係についてはふれなかったのかもしれない。
文武があえて鎌足と孝徳の関係を持ち出した背景には、孝徳→天武→(持統?)→文武という皇位継承が行われたとする考え方が前提にあったと言えるのではなかろうか。
文武が不比等に感謝の意思を表す時に天智の名前を出さなかったことには重要な意味が隠されている。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2019年02月24日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]






