のんびりと古代史

自分なりに「削偽定実」を試みる。

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不比等の忖度

【文武の崩御と不比等への食封賜与の詔】
続日本紀によると、文武天皇は慶雲四年(707)六月十五日に崩御している。懐風藻・文武天皇の段によると享年は25歳。
元明天皇即位前紀には慶雲三年十一月に不予の病となり、病の床に就いてから再三にわたって元明天皇には譲位の意思を示したという。
慶雲四年の四月十二日には日並知皇子命(草壁皇子)の命日(持統三年四月十二日)を国忌に制定している。草壁の存在感を増すことによって草壁の妻である元明の即位を実現しやすい環境を作る意図があったのだろう。
また同月十五日に藤原不比等に対して食封五千戸を賜与する詔を出す。この詔の中で、「・・・、難波大宮御宇掛畏天皇命の汝(不比等)の父藤原大臣の仕奉する姿は建内宿禰の仕奉する事と同じ事・・・」と食封賜与の理由を述べている。
草壁の命日を国忌としたことも、不比等に対して食封五千戸を賜与したことも病床の文武の意思ではなく不比等が文武が生存しているうちに自分にとって有利な環境を作る策謀を行ったのだろう。

【孝徳天皇に仕えた鎌足】
ここで藤原大臣と言われているのは言うまでもなく鎌足のことである。
我々の認識では鎌足が仕えたのは天智天皇である。
しかし、文武天皇は天智ではなく孝徳天皇との関係で不比等の父親を理解している。
もし文武が我々と同様、日本書紀の記述通りに鎌足と孝徳及び天智の関係を理解していたならば、天智の臣下として活躍した鎌足を孝徳に尽くした配下だったという表現をすることはないであろう。
文武にとって孝徳は重要な尊崇すべき先祖であった可能性があるということである。

【天智尊崇は不比等の元明に対する忖度か】
天智が詔の中で重要な役割をもって前面に出てくるのは同年七月に発せられた元明天皇の即位宣命の中のいわゆる「不改常典」からである。
察するところ、不比等が天智を前面に出したのは元明に対する忖度ということになりそうだ。
天武天皇の孫として即位した文武には天智を尊崇する意識は希薄だったが、天智の娘である元明を即位させるためには天智の存在感を朝廷内で高める必要があった。
不比等は元明即位前後から生存する天武の皇子たち(長、舎人、新田部、穂積)をけん制するために、天智の復権を進める動きを加速させていく。
蘇我本宗家を滅亡させた乙巳の変を中大兄と鎌足が中心となって遂行したことにしたのも、元明即位の頃から日本書紀完成までの間に不比等が着想した作り話である可能性を否定することはできない。

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